濱口 雄幸
(はまぐち おさち)
第27 代
日本国 内閣総理大臣
在任期間1929年7月2日
- 1931年4月14日
生年月日旧暦明治3年4月1日
(1870年5月1日)
出生地高知県長岡郡五台山村
出身校東京帝国大学法学部卒業
学位・資格・称号正二位勲一等
法学士(東京帝国大学)
前職大蔵省行政官
専売局長官
逓信省次官
大蔵省次官
衆議院議員
大蔵大臣
内務大臣
立憲民政党総裁
世襲の有無世襲ではない
選挙区衆高知
当選回数
党派立憲民政党
没年月日昭和6年(1931年)8月26日
濱口 雄幸(はまぐち おさち、明治3年4月1日(1870年5月1日) - 昭和6年(1931年)8月26日)は、日本の官僚、政治家。第27代内閣総理大臣。正二位勲一等。初の明治生まれの内閣総理大臣である。
目次
1 来歴
2 ライオン宰相の生き様
3 根回しに頼らない正面突破
4 金本位への転換
5 濱口首相遭難事件
6 家族・親族
7 系譜
8 参考文献
9 関連項目
10 外部リンク
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高知県長岡郡五台山村(現高知市)の林業を営む水口家に水口胤平の3人兄弟の末子として生まれる。幸雄と命名されるが、父親が出生届を出しに役所に行く途中で酒を飲み、役所に着いたときには酩酊状態になっていた。その状態で出生届を記入し、誤って名前を前後逆に記入した届が受理されてしまい雄幸となった。
明治22年(1889年)、高知県安芸郡田野村(現田野町)濱口義立の長女夏子と結婚し、濱口家の養嗣子となる。旧制高知中学(現高知県立高知追手前高等学校)、第三高等学校を経て、明治28年(1895年)東京帝国大学法科を卒業。
大蔵省に入り、専売局長官、逓信次官などを務め、大正4年(1915年)に立憲同志会に入党、衆議院議員に当選して代議士となる。加藤高明内閣の大蔵大臣、第一次若槻内閣の内務大臣などを務める。立憲民政党初代総裁として、張作霖爆殺事件の責で総辞職した田中義一内閣の後に内閣総理大臣に就任(任期:1929年7月 - 1931年4月)して組閣を行う。財界からの信任のある井上準之助前日本銀行総裁を蔵相に起用して金解禁や緊縮政策を断行し、また政友会の反対を排除してロンドン海軍軍縮条約を結ぶ。
官僚出身でありながら、その風貌から「ライオン宰相」と呼ばれ、謹厳実直さも相まって強烈な存在感を示しつつも大衆に親しまれた首相が濱口雄幸である。濱口が政治家として過ごした大正から昭和初期は、まさに激動の時代だった。この激動を乗り切って首相に上り詰めたのは、濱口の実直さや正義感、頑固さを高く評価して彼を押し上げていった周囲の政治家・財界人たちの期待の結果である。首相官邸前のライオン像と“ライオン宰相”濱口雄幸。
濱口は大蔵省入省後、1度上司と衝突、しばらく地方回りをしてかなり苦労した。見るに見かねて若槻禮次郎ら先輩や友人が、東京帰京の嘆願を行って呼び戻したというエピソードもある。その後、濱口の有能さを見込んで後藤新平が財界入りを口説き、さらに政治家となってからは加藤高明が自身の腹心として重用した。やがて蔵相を歴任するなどした濱口は、憲政会の幹部として影響力を増していった。中でも、後に国際協調と呼ばれる軍縮に賛同する姿勢が終始一貫していたのは注目される。第一次世界大戦中より帝国海軍拡張は当然の空気もあり、軍部、とりわけ海軍省・海軍軍令部は帝国国防方針に基づく八八艦隊確立のため、国防費増額を要求していた。