源行家
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源行家凡例

時代平安時代末期
生誕1145年?
死没文治2年5月12日1186年6月1日
改名義盛、行家
別名新宮十郎、新宮行家
官位従五位下備後守、備前守
氏族清和源氏為義流(河内源氏
父母源為義
兄弟義朝義賢義憲頼賢頼仲為宗
為成為朝為仲、行家、鳥居禅尼
子光家、行頼

源 行家(みなもと の ゆきいえ)は、平安時代末期の武将。河内源氏第五代源為義の十男。初めの名乗りを義盛という。新宮十郎、新宮行家とも。以仁王の挙兵に伴い、諸国の源氏に以仁王令旨を伝え歩き、平氏打倒の決起を促した。


生涯

熊野三山の要職に就いていた新宮別当家嫡流の行範(のちに19代熊野別当に就任)の妻となった鳥居禅尼(たつたはらの女房)の同母弟として生まれ、しばらく熊野新宮に住んでいたため新宮十郎と称した。平治元年(1159年平治の乱では兄・源義朝に味方して従軍。戦闘には敗れるが、戦線離脱に成功して熊野に逃れ、その後約20年間、同地に雌伏する。治承4年(1180年)、摂津源氏源頼政に召し出され以仁王平家追討の令旨を各地の源氏に伝達した。八条院の蔵人に補され、行家と改名したのはこの時である。

甥の源頼朝に決起を促したのも行家であるが、頼朝の麾下には入らず独立勢力を目指したため不和となる。養和元年(1181年)、尾張国墨俣川の戦い三河国矢作川の戦いで二回に渡り平家方と交戦。壊滅的な敗北を喫し、頼朝のもとに逃れた。さらに、頼朝に所領を求めるも拒否されたため、以降は甥の源義仲の幕下に走った。行家が大敗を喫した墨俣川の戦いの碑(岐阜県安八郡墨俣町)

寿永2年(1183年)義仲とともに入京、法皇の前では義仲と序列を争い、相並んで前後せずに拝謁した。従五位下備後守に叙任されるが、義仲と差があるとして不満を述べ、すぐに備前守に遷任する。山村育ちで無骨な義仲が法皇や貴族達の不興を買う一方、近畿育ちで弁舌が立つ行家は院内にいりびたり、法皇の双六の相手などをして取り入った。しかしほどなく義仲とも不和となり、身の危険を感じて、平家討伐に名を借りて京を脱出。播磨国室山で平重衡らの軍と戦い、またしても敗北を喫し、さらに義仲が派遣した樋口兼光にも敗れて行方不明となった。生来、扇動者としての才と権謀術数に長けてはいたが、軍略面での才能には乏しかったようである。

義仲が頼朝の派遣した源範頼源義経の軍勢に討たれた後、行家は元暦元年(1184年)2月に院の召しによって帰京している。その後の鎌倉源氏軍による平氏追討には参加しておらず、甥の義経に接近しながらも鎌倉に参向しようとはせず、半ば独立した立場をとって和泉河内(河内源氏の本拠地)を支配していた。8月、頼朝が行家討伐を計ると、行家は壇ノ浦の戦い後に頼朝と不和となっていた義経と結び、10月に反頼朝勢力を結集して後白河院から頼朝追討の院宣を受ける。しかし行家らに賛同する武士達は少なく、頼朝が鎌倉から大軍を率いて上洛する構えを見せると、11月3日、行家・義経一行は都を落ちた。途中大物浦で暴風雨にあって西国渡航に失敗した後は、次第に追い込まれ、逃亡の末に和泉国近木郷の在庁日向権守清実の屋敷(のちの畠中城)に潜伏する。翌年の5月、地元民の密告により露顕し、北条時定の手兵によって捕らえられ、長男光家・次男行頼とともに斬首された。

戦国時代の武将・新宮行朝の先祖にあたるという。


遺跡

愛知県蒲郡市に源行家が築いたとされる五井城があった。その後、そこを居城とした松平氏が関東に移って廃城となる。長泉寺、真清寺の山門はこの城の門の移築で、八幡社の前の池は城の堀であるなど諸説がある。


関連項目

源義円

畠中城

堀内氏善

新宮行朝

堀内氏久



演じた人物


『新・平家物語 義仲をめぐる三人の女』(1956年 大映 監督:衣笠貞之助 演:進藤英太郎

『新・平家物語 静と義経』(1956年 大映 監督:島耕二 演:進藤英太郎)

源義経』(1966年NHK大河ドラマ、演:坂東好太郎)

新・平家物語』(1972年、NHK大河ドラマ、演:織本順吉)

草燃える』(1979年、NHK大河ドラマ、演:戸浦六宏


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki