渥美清
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あつみ きよし
渥美 清

柴又駅前にたつ、渥美清が演じた車寅次郎銅像
本名田所 康雄
別名風天(俳号)
生年月日1928年3月10日
没年月日1996年8月4日(満68歳没)
出生地 東京都台東区
職業俳優コメディアン
活動期間1951年1996年
主な作品
男はつらいよ』シリーズ(全48作)
渥美清の泣いてたまるか
『拝啓天皇陛下様』
八つ墓村
幸福の黄色いハンカチ
キネマの天地』他
備考
1996年 国民栄誉賞
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渥美 清(あつみ きよし、1928年昭和3年)3月10日 - 1996年平成8年)8月4日)は、日本俳優。本名、田所 康雄(たどころ やすお)。

東京市下谷区車坂町(現・東京都台東区上野七丁目)出身。
目次

1 来歴・人物

1.1 生涯

1.2 経歴についての異説

1.3 実像


2 出演

2.1 映画

2.2 テレビ

2.3 CM

2.4 シングル

2.5 アルバム


3 親族

4 演じた俳優

4.1 ものまねをする芸人


5 参考文献

6 関連項目

7 外部リンク

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来歴・人物


生涯

1928年(昭和3年)3月10日に、上野の車坂で地方新聞の新聞記者をしていた父友次郎と、元小学校教諭で内職の封筒貼りをする母タツとの間に次男として生まれる。兄に健一郎がいる。

1934年11月、上野の板橋尋常小学校に入学。1936年、一家で板橋区志村清水町に転居。それに伴い、志村第一尋常小学校へ転入。小学生時代はいわゆる欠食児童であったという。加えて、病弱でもあり小児腎臓炎、小児関節炎、膀胱カタル等の様々な病を患っていた。その為、学校は欠席がちで、3年次と4年次では長期病欠であった。欠席中は、日がな一日ラジオに耳を傾け徳川夢声や落語を聴いて過ごし、覚えた落語を学校で披露すると大変な評判だったという。

1940年に、板橋城山高等小学校に入学。1942年、巣鴨中学校に入学するが、学徒動員で板橋の軍需工場へ駆り出される。1945年、同校を卒業するも、3月10日の東京大空襲で自宅が被災し焼け出される。

卒業後は工員として働きながら、一時期、担ぎ屋やテキ屋の手伝いもしていた(親友の谷幹一には、かつて自分は霊岸島桝屋一家に身を寄せていた、と語った事がある)。この幼少期に培った知識が後の「男はつらいよ」シリーズの寅次郎のスタイルを産むきっかけになったといえる。

1946年には新派の軽演劇の幕引きになり、大宮市日活館「阿部定一代記」でのチョイ役で舞台初出演。

その後、学生アルバイトという名が欲しくて中央大学経済学部へ入学したが、船乗りになるため退学する。しかし、母親に猛反対されたため船乗りになる事を断念。知り合いの伝手を頼って旅回りの演劇一座に入り喜劇俳優の道を歩むことになった。

なお、当初の芸名は「渥美悦郎」であったが、無名時代の極初期に参加した公演で、座長が観客に向けて配役紹介を行う際になぜか「悦郎」を忘れてしまい、「清」ととっさに言ったものをそのまま使用したといわれている。芸名の"渥美"は愛知県渥美半島から採ったとされる。

1951年、東京都台東区浅草ストリップ劇場(百万弗劇場)の専属コメディアンとなる。

1953年には、フランス座へ移籍。この頃のフランス座は、長門勇東八郎関敬六など後に一線で活躍するコメディアンたちが在籍し、コント作家として井上ひさしが出入りしていた。

1954年、肺結核で右肺を摘出手術しサナトリウムで約2年間の療養生活を送る。このサナトリウムでの療養体験が後の人生観に多大な影響を与えたと言われている。また、復帰後すぐに今度は胃腸を患い中野の立正佼成会病院に1年近く入院する。再復帰後は酒や煙草、コーヒーさえも一切やらなくなり過剰な程の摂生に努めた。

1956年にテレビデビュー、1958年に『おトラさん大繁盛』で映画にデビュー。

1959年にはストリップ小屋時代からの盟友である谷幹一関敬六スリーポケッツを結成。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki