海軍陸戦隊(かいぐんりくせんたい)は日本海軍に属した陸上戦闘の為に編成される部隊の事である。単に陸戦隊と呼ぶこともある。
目次
1 沿革
2 編制
2.1 艦船乗員による陸戦隊
2.2 特別陸戦隊
2.3 警備隊
2.4 防空隊
2.5 根拠地隊・特別根拠地隊
2.6 その他
3 装備
4 教育
5 主な戦歴
6 関連項目
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沿革日露戦争で仁川に上陸する陸戦隊、1904年2月日露戦争時の海軍陸戦重砲隊義和団の乱に出動した陸戦隊安慶攻略に艦上で上陸命令を待つ陸戦隊部隊、1938年6月11日
日本でも当初はイギリス海軍にならい、海軍の兵科として海兵隊が置かれた。これは現在のアメリカ海兵隊のような上陸作戦部隊ではなく、海上戦闘で敵艦船への強行接舷後に強行移乗・制圧を行う部隊として設置された。つまり現在の海上自衛隊の特別警備隊、ないし、護衛艦付き立入検査隊に似た運用を目的とされた。しかし、「強行移乗による制圧は時代遅れである」との声で1876年(明治9年)に廃止され、海兵軍楽隊のみが軍楽科として存続した。そのため海軍での軍楽隊員の制服は海兵のものとなっている。なお、海兵隊は佐賀の乱や台湾出兵では実戦参加している。
1886年(明治19年)11月5日に海軍陸戦隊概則が定められた。海軍陸戦隊は常設でなく、艦艇の乗組員から必要に応じ陸戦隊を臨時に編成した。鎮守府などの陸上部隊の人員で構成する特別陸戦隊も編成されることがあった。
西南戦争などでは機動力を生かし鎮圧に功績を挙げた。日露戦争では、仁川上陸作戦などの上陸作戦で陸軍を支援したほか、陸揚げした艦載砲と乗組員で臨時に編成された海軍陸戦重砲隊が、旅順攻囲戦に参加した。第一次世界大戦時にも青島攻略戦に重砲隊を参加させたほか、艦船陸戦隊と6個特別陸戦隊によるドイツ領南洋諸島の占領や、シンガポールで発生したイギリス軍インド人兵士の反乱鎮圧などに従事した。二・二六事件の際は横須賀鎮守府および艦艇の乗員で編成された陸戦隊を動員し反乱軍に対抗することが計画されたが、実施の前に反乱は鎮圧された。
また、国際的には、在外公館の警備や自国民保護には陸軍部隊ではなく海兵隊を使用することが常であり、日本も特に清国、中華民国における在外公館や居留民の保護に海軍陸戦隊が活躍した。義和団の乱では、戦闘激化直前に砲艦愛宕から派遣された25名の陸戦隊が、篭城戦での貴重な兵力となった。上海事変では上海海軍特別陸戦隊が編成され大規模な戦闘へ将兵が投入された。上海事変を受けて1932年には海軍特別陸戦隊令が制定され、上海海軍特別陸戦隊は正式な常設部隊となった。
太平洋戦争では戦域が拡大するにつれ、島嶼や局地防衛の必要から、特別陸戦隊のほか警備隊や防衛隊などの名称で陸戦隊が次々と編成された。また、落下傘部隊(1942年1月にセレベス島メナドで太平洋戦争最初の落下傘降下作戦を実施した。指揮官は堀内豊秋中佐。堀内中佐はその功を讃えられ、特別に昭和天皇に拝謁した。)や戦車部隊も保有した。終戦前には本土決戦に向けて艦艇部隊などの多くが陸戦隊に改編され、総兵力は10万人に達していた。
このように、日本海軍の陸戦隊は拡充を続けたものの、米海兵隊の様に陸・海軍から独立した軍種となることはなかった。独立することにより、帝国海軍の持つ「瀟洒で柔軟な気質」が失われ、粗野な文化が蔓延るのを嫌ったためと思われる。[要出典]また、海軍内でも陸戦隊はあくまで二義的な任務として捉えられ、海軍士官にとって根拠地隊などの常設的性格の陸戦隊への配置は左遷に近い扱いであった。
海兵隊廃止後は専ら陸戦隊が海軍の陸上戦闘機能を担うこととなった。そのため、艦艇乗組員のうち必要数をあらかじめ陸戦隊要員として指定しておき、有事の際に「陸戦用意」の命令のもと武装し臨時の陸戦隊を編成した。戦隊・艦隊ごとに編成計画を定めてあり、小規模なものは単艦で編成する小隊・中隊程度の陸戦隊から、大規模なものは複数艦の陸戦隊を集めた連隊・旅団程度の「連合陸戦隊」までがあった。