浅草寺
雷門
所在地東京都台東区浅草2丁目3番1号
位置 ⇒北緯35度42分53.03秒
東経139度47分48.32秒
山号金龍山
宗派聖観音宗 総本山
本尊聖観音(秘仏)
創建年(伝)推古天皇36年(628年)
開基(伝)土師中知
別称浅草観音、浅草の観音様
札所等坂東三十三箇所13番
江戸三十三箇所1番
文化財法華経(国宝)
二天門・元版一切経(重要文化財)
表・話・編・歴
東都金龍山浅草寺図(1820年)仲見世通り
浅草寺(せんそうじ)は、東京都台東区浅草二丁目にある東京都内最古の寺院。山号は金龍山。本尊は聖観音(しょうかんのん)。もと天台宗に属していたが、第二次世界大戦後独立し、聖観音宗の総本山となった。観音菩薩を本尊とすることから「浅草観音」あるいは「浅草の観音様」と通称され、広く親しまれている。東京都内では、唯一の坂東三十三箇所観音霊場の札所(13番)である。江戸三十三箇所観音霊場の札所(1番)でもある。
目次
1 歴史
2 境内
3 先祖供養
4 おもな年中行事
5 文化財
6 浅草寺の発掘
6.1 考古学上の遺跡としての浅草寺
7 関連項目
8 外部リンク
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寺伝によると、創建の経緯は次のとおりである。推古天皇36年(628年)、宮戸川(現・隅田川)で漁をしていた檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟の網にかかった仏像があった。これが浅草寺本尊の聖観音(しょうかんのん)像である。この像を拝した兄弟の主人・土師中知(はじのなかとも、この人物の氏名には諸説あり)は出家し、屋敷を寺に改めて供養した。これが浅草寺の始まりという。観音像は、高さ一寸八分(約5.5センチ)の金色の像であると言われるが、公開されることのない秘仏のため、その実体は不明というほかない。その後、大化元年(645年)、勝海上人という僧が寺を整備し、観音の夢告により本尊を秘仏と定めたという。さらに平安時代初期の天安元年(857年)(天長5年−828年とも)、延暦寺の僧・円仁(慈覚大師)が来寺して「お前立ち」(秘仏の代わりに人々が拝むための像)の観音像を造ったという。これらのことから、浅草寺では勝海を開基(創立者)、円仁を中興開山と称している。雷門や仁王門は天慶5年(942年)、安房守平公雅が武蔵守に任ぜられた際に創建したとの伝えがあり、この頃に寺観が整ったものと思われる。
浅草寺が文献に現われるのは鎌倉時代の『吾妻鏡』が初見である。近世には徳川家の祈願寺に定められたこともあり、関東でも有数の観音霊場として多くの参詣者を集めた。
江戸時代後半には、境内に「仲見世」の前身である商店や芝居小屋が設けられ、大道芸人が集まるといった、庶民の娯楽センターの役割も果たしていた。そうした傾向は近代以降も引き継がれ、浅草は庶民の盛り場、娯楽場として発達し、浅草寺はそのシンボル的存在であった。明治初期には境内が公園地に指定され、1885年(明治18年)には表参道両側の「仲見世」が近代的な煉瓦造の建物に生まれ変わった。1917年(大正6年)からは日本語の喜歌劇である「浅草オペラ」の上演が始まり、映画が普及する以前の大衆演劇として隆盛した。関東大震災では浅草区は大半が焼失する被害にも関わらず、境内は一部建築物が延焼するだけの被害で済んでいる。しかし、1945年(昭和20年)3月10日、東京大空襲で、旧国宝の観音堂、五重塔などが焼失。太平洋戦争後の浅草は、娯楽の多様化や東京都内の他の盛り場の発展などによって、一時衰退した。しかし地元商店街のPR活動によって徐々にではあるが過去の賑わいを取り戻しつつあり下町情緒を残す街として東京の代表的な観光地となっており、羽子板市、ほおずき市などの年中行事は善男善女で賑わっている。但し夜間(19時以降)における仲見世や六区の閑散さは過去の殷賑ぶりとは隔世の感がある。
境内雷門宝蔵門本堂五重塔沙竭羅龍王像(原型高村光雲作)浅草神社
雷門−表参道入口の門。切妻造の八脚門で、向かって右の間に風神像、左の間に雷神像を安置することから、正式には「風雷神門」というが、「雷門」の通称で通っている。慶応元年(1865年)に焼失後、長らく仮設の門が建てられていたが、1960年(昭和35年)、約1世紀ぶりに鉄筋コンクリート造で再建された。実業家松下幸之助が浅草観音に祈願して病気平癒した報恩のために寄進したものである。