治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)は、平安時代末期の治承4年(1180年)から元暦2年(1185年)にかけての6年間にわたる大規模な内乱である。後白河天皇の皇子である以仁王による挙兵を契機に各地で平清盛を中心とする六波羅政権ともよばれる平氏政権に対する反乱が起こる。最終的には、反乱勢力同士の対立がありつつも平氏政権の崩壊により源頼朝を中心とした主に坂東平氏から構成される関東政権(鎌倉幕府)の樹立という結果に至る。
一般的には「源平合戦(げんぺいかっせん、げんぺいがっせん)」あるいは「源平の戦い(げんぺいのたたかい)」などの呼称が用いられることがあるが、こうした呼称を用いることは適当でないとする議論がある(詳しくは後述)。
目次
1 背景
1.1 平氏の隆盛
1.2 鹿ケ谷の陰謀
2 経緯
2.1 前期
2.1.1 以仁王の挙兵
2.1.2 関東武士団の挙兵
2.1.3 富士川の戦い
2.1.4 関東経営
2.1.5 地方武士団・源義仲の挙兵
2.1.6 清盛の死
2.2 中期
2.2.1 源義仲の上洛
2.2.2 寿永二年十月宣旨
2.2.3 義仲の滅亡
2.3 後期
2.3.1 一ノ谷の戦い
2.3.2 屋島の戦い
2.3.3 壇ノ浦の戦い
3 意義
3.1 平氏政権の排除
3.2 武士政権の成立
4 「源平合戦」という呼称について
4.1 源頼朝に従った平氏
4.2 源頼朝に従わなかった源氏
5 参考文献
6 関連項目
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平安時代の末期、皇族・貴族内部の権力闘争が、保元の乱・平治の乱といった軍事衝突に発展するようになった。こうした内乱で大きな働きをした平清盛は、武士の身分でありながら異例の栄達を遂げ(平清盛の実父が白河法皇だったためとする説もある)、仁安2年(1167年)には太政大臣となる。平氏一門は主要官位を占め、多数の知行国を得て、事実上の平氏政権が成立した。
詳細は鹿ケ谷の陰謀を参照
平清盛一族(平氏)の隆盛は、旧来の勢力である他の貴族や皇族の権益を圧迫した。武士身分出身である平氏への嫌悪も手伝って、貴族層を中心に平清盛政権への反発が密かに広まった。これが具体化したものが、安元3年(1177年)の鹿ケ谷の陰謀である。陰謀は程なく発覚し、荷担した貴族や武士(多くは後白河法皇の近臣)が追放された。この事件以降、平氏政権と後白河法皇の関係は急速に悪化した。
詳細は以仁王の挙兵を参照
治承3年(1179年)11月に平清盛によるクーデターで後白河法皇が幽閉され、翌年2月、高倉天皇が言仁(ときひと)親王に譲位(安徳天皇)。