河越氏(かわごえし)は坂東八平氏秩父氏流の嫡流であり、武蔵国の河越館を拠点として国司の代理職である「武蔵国留守所総検校職」(むさしのくにるすどころそうけんぎょうしき)を継承し、武蔵七党などの武士団や国人を取りまとめていた。
目次
1 歴史
2 一族
3 系図
4 関連項目
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後三年の役で先陣を勤めた功績により発展した秩父氏の嫡流である河越氏は、代々「武蔵国留守所総検校職」を勤める有力な在庁官人であり、武蔵国の武士団の顔役だった。
権力を強化するために源氏との姻戚関係を結んでおり、葛貫能隆の姉妹が源義賢に嫁いでいる。能隆の父・秩父重隆と義賢が、源氏・秩父氏同士の争いである大蔵合戦で源義平に討たれた後、能隆と嫡男の重頼は河越(川越市)の地を拠点とし、河越氏となった。保元の乱では源義朝の陣に従っている。義朝が滅びたのちは平家に従い、平家を介して後白河上皇に所領を寄進し、その荘官となる。治承・寿永の乱では源氏方につき、源頼朝の命により重頼の娘(郷御前)が源義経の正室となった。しかし頼朝と義経が対立すると、義経の縁戚である事を理由に重頼と嫡男・重房は誅殺され、武蔵国留守所総検校職の地位も秩父氏嫡流を争う平姓畠山氏に奪われた。重忠が滅びた後、河越重員の時代、嘉禄2年(1226年)に河越氏が留守所総検校職の地位に復活。
鎌倉時代末期には河越高重が武蔵七党と共に、新田義貞の挙兵に加り倒幕に貢献した。観応の擾乱直後の武蔵野合戦(1352年)では河越直重らは足利尊氏方に参戦し、新田義宗を越後に敗走させた。その後、関東管領畠山国清の下で戦功を挙げ、相模国守護職となる。
しかし関東の足利体制を固める鎌倉公方足利基氏の下で、畠山国清が失脚。河越氏の相模国守護職も解任されてしまう。慶安元年(1368年)、高坂氏と共に武蔵平一揆を指揮し、関東管領上杉憲顕に反乱を起こしたが、上杉朝房に河越合戦で敗北し、伊勢国へと敗走した。これ以降、平安時代以来、武蔵国最大の勢力を誇った河越氏は没落した。
一族川越市元町の養寿院。河越経重が開基となった曹洞宗の寺(当初は天台宗)。境内に河越重頼の墓がある養寿院の門
葛貫能隆
河越重頼
河越重房
郷御前
河越重時
河越重員
河越重資
河越泰重
河越経重
河越宗重
河越貞重
河越高重
河越直重
その他 長門国(現在の美祢市域)に、河越氏のものとされる殿山城が存在する。蒙古襲来の際にこの地に下向したと思われ、後に大内氏の家臣として名を連ねた。1399年、筑前の障子ヶ岳の戦いにおいて、一族の河越伊豆守が戦死したという。
系図秩父重綱 ┣━━━━┳━━━━┳━━━━┓秩父重隆 高山重遠 江戸重継 塩原重治 ┃ ┃ ┃ ┃ 能隆 高山氏へ 江戸氏へ 塩原氏へ ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ 重頼 重弘 ┣━━┳━━━┳━━━┳━━┳━━┓ ┃ 重房 重員 重家 重時 重方 重雄 小林氏へ ┃ ┃ ┣━━┳━━┳──────┐ 重輔 河野氏へ 泰重 信重 重家 松方義雄 ┃ ┃ ┃ 貞重 経重 松方氏へ ┣━━━━━┓ 宗重 長重 ┃ ┃ 貞重 重方 ┃ ┃ 高重 (河越氏/川越氏へ) ┃ (河越氏/川越氏へ)
関連項目
桓武平氏
川越市
カテゴリ: 日本の氏族 | 河越氏 | 秩父氏
更新日時:2008年9月4日(木)15:21
取得日時:2008/09/07 01:50