汪兆銘政権
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この項目では1940年に重慶の蒋介石政権に対抗して汪兆銘が南京に立てた政権について記述しています。1927年に南京の蒋介石政権に対抗して汪兆銘が武漢に立てた政権については武漢国民政府をご覧ください。

汪兆銘政府(おうちょうめいせいふ)は、1940年から1945年にかけて中国に存在した中華民国国民政府の一つ。行政院長(首相)は汪兆銘。なお、首都を南京としていたことから、当時の日本では南京国民政府とも呼称された。中華民国南京国民政府
中華民國

1940年 - 1945年


国旗国章
国の標語 : 和平・反共・建国国歌 : 三民主義

公用語國語 (中国語)
首都南京
国民政府主席
1940年 - 1944年汪兆銘(代理)
1944年 - 1945年陳公博(代理)

行政院長
1940年 - 1944年汪兆銘
1944年 - 1945年陳公博

変遷
樹立1940年3月30日
崩壊1945年

通貨
時間帯UTC +8


概要

日中戦争の勃発に伴い、日本との徹底抗戦を主張する蒋介石に対して、当時の首相近衛文麿が「爾後國民政府ヲ對手トセズ」とした近衛声明を出し、自ら和平の道を閉ざした。その為、日本は蒋介石に代わる新たな交渉相手を求め、日本との平和交渉の道を探っていた汪兆銘を擁立することとした。そして、汪兆銘は日本の力を背景として、北京中華民国臨時政府南京中華民国維新政府などを集結し、蒋介石とは別個の国民政府を1940年に設立した。汪はあくまで国民党の正統であるとして、国民政府が南京に戻ったという理由から政府の発足式を「還都式」と称したが、国際的な承認は得られず、友好国のドイツでさえ、承認したのは1941年7月になってからだった。

汪兆銘政府は、日本との不対等外交や日本の内政干渉などを強いられた上、日本政府が第二次世界大戦における日本軍の戦況悪化と共に重慶政府との和平を目指すようになり、さらには民衆の支持も得られなかったことから孤立し、1944年に汪兆銘が病死すると、更に求心力を低下させた。やがて、1945年の日本の敗戦と共に同政権は消滅した。今日では汪兆銘政権を傀儡政府と見なすのが一般的である。

また汪兆銘政府の軍隊は、日本軍とは全く協力せず、蒋介石政権と本来の共通の敵であった共産ゲリラに対して軍事的な協力のもとで攻撃していたという。そのため、日本軍からすると軍事的価値は少なかったと言われている。


関連項目

中華民国臨時政府 (北京)

中華民国維新政府

蒙疆連合自治政府

華北交通

華中鉄道

中国聯合準備銀行

中央儲備銀行

北支那開発

中支那振興

満州国

大東亜会議

陳公博

周仏海

高宗武

今井武夫
カテゴリ: 中華民国の政治 | 昭和時代戦前の占領地政策

更新日時:2008年6月19日(木)13:05
取得日時:2008/07/22 23:49


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki