稲作(いなさく)は、イネ(稲)を栽培することである。
主に主食のコメを得るため、北緯50°?南緯35°の範囲にある世界各地域で稲作は行われている。現在では、米生産の約90%をアジアが占める。
稲の栽培には水田や畑が利用され、それぞれの環境や需要にあった稲品種を用いる。水田では水稲(すいとう)、畑地では陸稲(りくとう)・(おかぼ)とよばれる稲を使用されるが、生物学的な区別は特にない。
収穫後のイネからは、米、米糠(ぬか)、籾殻(もみがら)、藁(わら)がとれる。刈田と稲の天日干し(秋)
目次
1 歴史
1.1 起源
1.2 日本への伝来
1.3 日本における歴史
2 方式
2.1 二期作と二毛作
2.2 水田稲作と陸稲
2.3 栽培法
3 手順
3.1 古来からの伝統的な方法
3.2 最近の一般的な方法
3.3 不耕起栽培
4 稲作文化
5 関連項目
6 脚注
7 参考書籍
8 外部リンク
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従来、稲作の起源は植物相の豊富な中国雲南省ではないかといわれてきたが、最近の考古学的調査により雲南省の稲作遺跡は4,400年前以上に遡れないことが明らかになった。 ところが、中流域右岸にある江西省や湖南省で1万年以上前に遡る稲籾が続々と発見されており、古いものは1万2000年前に遡る[1]。これらは焼畑による陸稲栽培と考えられている。また、1980年代に揚子江下流右岸の浙江省寧波の河姆渡(かぼと)村から炭素14年代測定法で約7000?6500年前の水田耕作遺物(水田遺構は発見されていない)が発見されており、稲の水田耕作は揚子江中・下流に起源するとする説が有力である。 なお最古の水田遺構は馬家浜文化の中期にあたる約6000年前の揚子江下流左岸の江蘇省呉県の草鞋山遺跡で、見つかっている。
稲の伝来に関して、以下の説が主なものとして存在する。
揚子江下流域原産米が山東半島(斉の田)を経て、朝鮮半島南部を経由して九州北部に伝来[2]。
遼東半島から朝鮮半島を南下して九州北部に伝来[3]。
揚子江下流域から直接九州北部に伝来(対馬暖流ルート)[4]。
江南から西南諸島を経て南九州へ(黒潮ルート)[5]。
2.は、遼東半島や朝鮮北部での水耕田跡が近代まで見つからないこと、朝鮮半島での確認された炭化米が紀元前2000年が最古であり、畑作米の確認しか取れない点、極東アジアにおける温帯ジャポニカ種/熱帯ジャポニカ種の遺伝分析において、一部遺伝子が朝鮮半島を含む中国東北部から確認されない点などの複数の証左から、ほぼ完全に否定的されつつある(ただし陸稲は遼東半島から朝鮮半島へ)。
また、4.の江南からの黒潮ルートは縄文時代の熱帯ジャポニカの伝来ルートとして、以前は有力視されていた。このルートは柳田國男の提唱した「海上の道」で名高く、賛成者は農学者や民俗学者に多いが、沖縄における稲作は10世紀以降と考えられるので現在では支持者は少ない。
日本列島における稲作の歴史は長きに亘って弥生時代に始まるとされてきた。しかし、近年になって縄文後期中葉に属する岡山県南溝手遺跡や同県津島岡大遺跡の土器胎土内からイネのプラント・オパールが発見されたことにより、紀元前約3500年前から陸稲(熱帯ジャポニカ)による稲作が行われていることが判明している。また朝寝鼻貝塚の6000年前の地層からイネプラントオパールが発見されたことによって、縄文時代中期以前まで遡るとする説も出てきて、稲作が生業であったかどうかは別にしても、縄文時代後・晩期ごろ栽培されていたことはほぼ確実だと推定されるようになった。水稲耕作が行われた弥生時代より以前の稲作は陸稲として長い間栽培されてきたことは熊本県上ノ原遺跡出土の資料からも類推されていた。そして、縄文時代の栽培穀物は、イネ、オオムギ、アズキ、アワであり、これらの栽培穀物は、後期・晩期(炭素年代測定で4000?2300年前)に属する。
日本の最古の水田址は縄文時代晩期水田址で、約2500年前である。
さらに近年の炭素14年代測定法により弥生時代の始まりが少なくとも紀元前10世紀まで遡る可能性が出てきた。