気仙郡(けせんぐん)は、岩手県南東部(陸前国北東部)に位置する郡。人口6,452人、面積334.83km2、人口密度19.3人/km2。(2008年7月1日、推計人口)
以下の1町を含む。
住田町(すみたちょう)
目次
1 歴史
1.1 古代?近代
1.2 町村制施行以後
2 関連項目
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古代?近代
古代に陸奥国気仙郡が置かれた。これは現在の宮城県北東部および岩手県南東部にまたがるものであり、現在の本吉郡を含むものであった。
気仙郡司として、左大臣阿倍倉梯麻呂の後裔とされる金氏の名が見える。金氏は、貞観元年(859年)に初代気仙郡司として下向した安倍兵庫丞為雄(ためかつ、為勝とも)を始祖としており、郡司を世襲したようである。安倍貞任の舅と十訓抄に見える金為行と、気仙郡司と陸奥話記に見える金為時を兄弟とする系図がある。
文治5年(1189年)の奥州藤原氏の滅亡後、気仙郡は胆沢・磐井・牡鹿・江刺などの諸郡(諸説あり)とともに奥州総奉行に任じられた葛西清重の所領になったといわれるが、鎌倉時代岩手県宮古市に本拠を置いた閉伊氏の資料には、源為朝の遺児とされる閉伊為頼(為家・頼基・行光とも)が源頼朝より閉伊、気仙を給わり閉伊氏を称し、代々これを領したともあり、葛西氏が気仙郡をその治下に置いたのは南北朝の争乱期になってからともいわれる。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の奥州仕置により、気仙郡を統治していた葛西氏が滅亡すると、気仙郡は木村吉清・清久父子の治下に置かれる。
天正19年(1591年)に葛西大崎一揆で失脚した木村吉清に代わり伊達政宗の所領となる。
同年8月、桃生郡深谷庄須江村(現宮城県石巻市河南町)糠塚舘において、伊達軍に降伏し中央の処断を待っていた気仙郡を中心とする一揆側の舘主とその子ら二十数名が、政宗の密命を受けた泉田重光の軍の襲撃を受け殺害されるという事件が起こる。仙台藩関係の資料によれば、仕置軍総大将を務めた豊臣秀次の命令によるものであったとされるが異論もあり、事件の真相、殺害された人数、人名等については諸説ある。『伊達秘鑑』によればこの時殺害された旧舘主達を「一揆張本ノ主将共」と記し、首は二本松の秀次の陣所に送られた後、京の秀吉の許で実検の上、三条大橋において梟首されたという。
関ヶ原の戦いの後、気仙郡は伊達氏の領地となった。
仙台藩の直轄地であった気仙郡の領域については時代により若干の変化があるようであるが、江戸時代を通じて今泉・長部・高田・矢作・竹駒・横田・広田・小友・浜田・勝木田(以上現陸前高田市)・世田米・下有住・上有住(以上現住田町)・末崎・日頃市・猪川・立根・田茂山・大船渡・赤崎(以上現大船渡市)・綾里・越喜来・吉浜(以上現大船渡市三陸町)・唐丹(以上現釜石市)の計二十四ヶ村が気仙郡に属していたことが知られる。
1868年(明治元年)12月7日に、陸奥国を分割して気仙郡・本吉郡(もとよし)・桃生郡(ものう)・牡鹿郡(おしか)・登米郡(とめ)・遠田郡(とおだ)・栗原郡(くりはら)・玉造郡(たまつくり)・志田郡(しだ)・加美郡(かみ)・黒川郡(くろかわ)・宮城郡(みやぎ)・名取郡(なとり)・柴田郡(しばた)で構成される陸前国が設けられ、新たに気仙郡が生まれた。これは古代の気仙郡より縮小されたものであった。12月23日、気仙郡が政府の直隷となり、松本藩取扱(花巻県所管)となる。
1869年(明治2年)8月18日、気仙郡は江刺県の所管となる。
1871年(明治4年)11月2日、一関県の所管となり、12月13日には水沢県の所管となる。
1875年(明治8年)10月、村の配置分合が行われ、猪川村と田茂山村が合併して盛村に、今泉村と長部村が合併して気仙村に、高田村と竹駒村が合併して氷上村に、浜田村と勝木田村が合併して米崎村となる。11月22日、磐井県の所管となる。