武藤 敏郎(むとう としろう、1943年7月2日-)は、日本の財務官僚、経済学者(財政政策・金融政策)、実業家。株式会社大和総研理事長、東京大学先端科学技術研究センター客員教授。大蔵事務次官、財務事務次官、日本銀行副総裁を歴任した。
目次
1 来歴
1.1 生い立ち
1.2 大蔵省
1.3 日本銀行
1.4 ポスト福井
1.5 副総裁退任後
2 政策・評価
2.1 国債30兆円枠
2.2 金融政策
2.3 財政と金融の分離
3 人物
4 略歴
5 脚注
6 関連項目
7 外部リンク
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埼玉県浦和市(現・さいたま市)出身。6人兄弟。父は浦和市議会議員、浦和市収入役を務めた。上福岡市市長を務めた武藤博は次兄。さいたま市浦和区にもう一人兄が居る。
国家公務員試験上級職試験を2番で通過し、旧大蔵省入省。同期には中島義雄(財政金融研究所長)、長野厖士(大蔵省証券局長)、中山恭子(大蔵省大臣官房参事官)、塩田薫範(公正取引委員会事務総長)、井坂武彦(造幣局長)、佐藤謙(防衛事務次官)、森昭治(金融庁長官)等がおり「花の昭和41年組」と呼ばれた。大蔵省では主計局を中心にキャリアを積んだ。
1990年代、米国の投資ファンドなど外資による日本市場に対する攻勢が強まるなか、ノーパンしゃぶしゃぶなど大蔵官僚への過剰接待がマスコミにより報道される。大蔵省官房長だった武藤は職員に対する監督責任を問われ、大臣官房総務審議官に更迭される。
同期中で中島義雄や長野厖士らが事務次官候補から外されたこともあり、大蔵事務次官に就任した。中央省庁再編により、初代財務事務次官に就任した。事務次官退任後は財務省顧問を務めた。
2003年、日本銀行に転じ副総裁に就任する。
2008年2月、日本銀行総裁福井俊彦の任期満了が迫ると、武藤は後任総裁の最有力候補とされた。副総裁として日銀政策決定会合に参加し、福井の下で量的金融緩和政策やゼロ金利政策の解除、政策金利引き上げの実施などを決定しており、これらの経済政策に対する評価は高い[1]。しかし、一方では、福井と共にサブプライム問題の一因ともなっている外資による国内での資金調達を容易にした低金利政策や量的緩和政策決定の渦中にあったことに対する批判もある[要出典]。参議院第一党の民主党は、当初から財務官僚出身者の総裁就任に難色を示しており、衆議院での2008年度予算案の強行採決への反発も強いことから、国会の同意が得られるか不透明な状勢となった[2][3]。
2008年3月、日本政府は武藤を総裁候補、伊藤隆敏と白川方明を副総裁候補として国会に正式に提示し、武藤らは衆参両院の議院運営委員会にて所信表明を行った。
3月11日に表明した所信では日銀の独立性や金融政策について持論を述べている[4]。