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業(ごう、サンスクリット:karman ??????、パーリ語:kamma ????)とは、サンスクリットの動詞の「クリ」 (kR) の現在分詞である「カルマット」 (karmat) より転じカルマンとなった名詞である。したがって、「なすことそれ自身」という意味であって、古人が「造作」の義と言い伝えてきたとおり、動作の抽象的非人格的なものを言う。そこには、一般に言われている「なすもの」「なされたこと」「つくられたもの」などの意味はない。
目次

1 概要

2 釈迦以前の業

3 釈迦の立場

4 業力

5 二業・三業

6 五業

7 三時業

8 業道

9 業と因果応報

10 引業・満業

11 共業

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概要

仏教の基本的概念のひとつ。サンスクリット "karman" の訳。本来は行為の意味。因果思想と結合し、業はその善悪に応じて果報を与え、死によっても失われず、輪廻転生に伴って、代々伝えられると考えられた。「ウパニシャッド」にもその思想は現れ、輪廻思想・業感縁起の基礎となる。宿業思想に発展し、一種の運命論となった。中国、日本の思想にも影響を与える。


釈迦以前の業

業はインドにおいて、古い時代から重要視された。ヴェーダ時代からウパニシャッド時代にかけて輪廻思想と結びついて展開し、紀元前10世紀から4世紀位までの間にしだいに固定化してきた。

善をなすものは善生をうけ、悪をなすものは悪生をうくべし。浄行によって浄たるべく。汚れたる行によって、汚れをうくべし
善人は天国に至って妙楽をうくれども、悪人は奈落に到って諸の苦患をうく。死後、霊魂は秤にかけられ、善悪の業をはかられ、それに応じて賞罰せられる

? 『百道梵書』 (Zatapathaa-braahmana)

このような倫理的な力として理解されてきた業がやがて何か業というものとして実体視されるようになる。

あたかも金細工人が一つの黄金の小部分を資料とし、さらに新しくかつ美しい他の形像を造るように、この我も身体と無明とを脱して、新しく美しい他の形像を造る。それは、あるいは祖先であり、あるいは乾闥婆(けんだつば)であり、あるいは諸神であり、生生であり、梵天であり、もしくは他の有情である。……人は言動するによって、いろいろの地位をうる。そのように言動によって未来の生をうる。まことに善業の人は善となり、悪業の人は悪となり、福業によって福人となり、罪業によって罪人となる。故に、世の人はいう。人は欲よりなる。欲にしたがって意志を形成し、意志の向かうところにしたがって業を実現する。その業にしたがって、その相応する結果がある

? 『ブリハド・アーラヌヤカ・ウパニシャッド』

インドでは業は輪廻転生の思想とセットとして展開する。この輪廻と密着する業の思想は、因果論として決定論宿命論のような立場で理解される。それによって人々は強く業説に反発し、決定的な厭世の圧力からのがれようとした。それが釈迦と同時代の哲学者として知られた六師外道と仏教側に呼ばれる人々であった。

ある人は、霊魂と肉体とを相即するものと考え、肉体の滅びる事実から、霊魂もまた滅びるとして無因無業の主張をなし、また他の人は霊魂と肉体とを別であるとし、しかも両者ともに永遠不滅の実在と考え、そのような立場から、造るものも、造られるものもないと、全く業を認めないと主張した。


釈迦の立場

このような風潮の中で釈迦は自ら「比丘たちよ。あらゆる過去乃至未来乃至現在の応供等正覚者は業論者、業果論者、精進論者であった」といわれたといわれるように、正しい因果論の主張者であった。しかも、それは釈迦の根本的立場であった無我論のうえに説かれたものであるから、業は明らかにその字義通りの「造作」であり、「行為それ自身」として考え、それを実体視することはなかった。


業力

しかし、業が行為それ自身であるということは、単に刹那に生滅するものとして刹那的なものではなく、そこには力の余勢というものが当然考えられねばならない。すなわち、業は業ということだけでなく、業の力、業力として考えられた。

業は刹那に生滅するもののままで、将来への余勢を残すものとして、単に身体や言葉にあらわれるだけでなく、心への印象として、また心の働きとして重視すべきであると考えられる。このことが仏教で後に業の体は思の心所であるといわれるようになった。

仏教では心を造作せしめる働きとして、善悪等の心を働かさせる力として業を考えたので、これをまず思業と名づけ、思の所作を思已業と名づける。


二業・三業

業の主体は善悪の心を働かせる思 (cetanaa) という心のはたらきにあるという点で、その思に相応する意を主として、これを意業とよび、思の所作は身体と言語のうえに具体的に現われるから、思已業について、それを身業と語業(=口業)とにわける。かくて、業は思業思已業の二業説から、身口意の三業説になった。

身業(しんごう、K?ya) - 身体の上に現る総ての動作・所作のこと。悪業では偸盗・邪淫・殺生(ちゅうとう・じゃいん・せっしょう)など。

口業(くごう、V?ca) - 語業ともいう。口の作業、すなわち言語をいう。悪業では妄語・両舌・悪口・綺語(もうご・りょうぜつ=二枚舌・あっく・きご=飾った言葉)など。

意業(いごう、Cetas) - 意識・心のはたらきで起こすこと。悪業では貪欲・瞋恚・邪見(とんよく・しんい・じゃけん)など。

仏法では、これら身口意の3つの悪業を離れ、善業を努めることが大事とされる。また密教では、身密・口密・意密の三密により仏の微妙(みみょう)なる働きを思惟し修行する。


五業

意業は心の働いてゆくすがたであるから、他にむかってこれを表示することはできないが、身業と語業は具体的な表現となって現われる。この具体的に表現されて働く身業を身表業(しんひょうごう、kaaya-vijJapti-karman)といい、語業を語表業 (vaag-vijJapti-karman) という。

このように具体的に表面に現われた身語の二業は、刹那的なものでなく、余勢を残すから、身語二業の表業が残す余勢で、後に果をひく原因となるようなもの、それを身無表業(しんむひょうごう、kaaya-avijJapti-karman)・語無表業 (vaag-avijJapti-karman) という。このようにして、初めの意業と身語二業の表無表の四業とで五業説を形成する。

いま、これらの業の分類を通して、仏教の業説の意図するところを考える時、そこには仏教の基本的な考えかたが示されている。すなわち人間の生活が厳然たる因果応報という姿に営まれること、したがって人間の行為は現在刹那に終結してしまうものでなく、常に因縁果と相続してゆくものであり、すべてが全く自己責任の中に果たされねばならないことである。釈迦が、

人間は生まれによって尊いのでも賤しいのでもない。その人の行為によって尊くも賤しくもなる


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Smilegreen