楊国忠
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楊国忠(ようこくちゅう ? - 756年7月15日)は唐代玄宗朝の権臣。名は?(しょう)、蒲州(ほしゅう)永楽(山西省?城県)の人。楊貴妃と曾祖父(別の説では祖父)が同じで又従兄に当たる。


経歴

楊国忠は若いころに軍功を挙げて、741年、親戚である楊貴妃の口添により監察御史に任命され、750年天宝9)には玄宗より「国忠」の名を下賜された。早くに時の宰相、李林甫とむすび、旧来の豪族を排撃して、玄宗の信任を得、李林甫の専権を牽制した。752年(天宝11)李林甫の死後、宰相兼文部尚書の職を引き継ぎ、40余の官職を兼ねた。執政期間中、2度にわたり南詔(なんしょう)討伐軍を起こしたが、もとより瘴癘(しょうれい)の地であり、南詔に吐蕃が加勢したことも加わって、751年(天宝10年)には6万の戦死者を出して大敗を喫した。754年(天宝13)6月、楊国忠は再び、李?に南詔攻撃を命じたが、今度も惨敗し、2度の出兵による損兵は20万人近くに及んだ。

楊国忠は絶えず楊貴妃を頼みとし、自らの権力集中に努め、天下の特に優れた才能を集めた。安禄山に叛意ありと考え、その排撃を強め、権力を剥奪するよう企図した。その結果、安禄山は楊国忠に対して不満と敵意を抱き、時を置かずして、謀反の意志を固めた。

755年(天宝14)、ついに安史の乱が勃発、安禄山は楊国忠の排除を名目に武装蜂起し、長安を陥落させた。6月には玄宗とその側近は潼関に逃げ落ちた。楊国忠は玄宗に説いて、四川省成都に向かうことを決めさせた。四川の馬嵬(ばかい)駅(陝西省興平市)に向かう途上、将士の疲労と飢餓は極限に達して前進を拒否、太子の李亨は、宦官李輔国高力士などと謀り、クーデタを決行した。大将軍の陳玄礼は 「今天下崩離,萬乘震盪,豈不為楊國忠割??庶、朝野怨尤,以至此耶? 若不誅之以謝天下,何以塞四海之怨憤!」(今日、天下は崩れ落ち、天子の地位は揺らいでいる。楊国忠のために亡民は苦しみ、朝野に怨嗟が渦巻いているのではないか。もしこれを誅せずに天下に謝すれば、どのように四海の恨みと憤りを抑えられようか!)と述べ、楊家の一族を皆殺しにさせた。西門内に逃げ入った楊国忠は、殺到した諸下士官らに惨殺された。さらに兵士らは玄宗に迫って、楊貴妃の処刑も要求し、玄宗は泣く泣く楊貴妃を縊死させたという。


関連項目

安史の乱
カテゴリ: 唐代の人物 | 756年没

更新日時:2008年4月13日(日)11:06
取得日時:2008/08/27 11:40


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki