衆議院議員 森 喜朗
(もり よしろう)
生年月日1937年7月14日(71歳)
出生地石川県能美郡根上町(現:能美市)
出身校早稲田大学第二商学部
学位・資格商学士
前職新聞社社員
衆議院議員秘書
所属委員会
内閣役職衆・懲罰委員会委員
世襲無
(根上村長の森喜平は祖父。
森茂喜は父)
選出選挙区石川県第2区
当選回数13回
所属党派自由民主党(町村派)
党役職石川県第2選挙区支部長
会館部屋番号衆・第2議員会館309号室
⇒Yoshiro Mori WebSite
森 喜朗(もり よしろう、1937年(昭和12年)7月14日 ‐ )は、日本の政治家。衆議院議員。内閣総理大臣(第85代・第86代)。
目次
1 経歴
2 首相時代
2.1 首相就任のいきさつ
2.2 資質問題
2.3 官房長官の交代
2.4 加藤の乱
2.5 えひめ丸事件
2.6 支持率
2.7 首相在任中の活動
3 問題発言
4 首相退陣後の動向
4.1 大連立構想を仲介
5 主な所属議員連盟
5.1 日韓トンネルを提案
5.2 新たな日中友好議連計画
6 郵政解散
7 人物
8 家族 親族
9 系譜
10 栄典
11 略歴
12 脚注
13 関連項目
14 外部リンク
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石川県能美郡根上町(現在の能美市)に、根上町長を務めた森茂喜の長男として生まれる。石川県立金沢二水高等学校時代はラグビー部のキャプテンを務める。北陸三県大会で準優勝の成績を残した(当時はこの大会で優勝すると全国大会に進出できた)。その活躍から父の知人であった当時のラグビー部監督のスポーツ推薦を受けて早稲田大学第二商学部(夜間学部)入学。早稲田大学ラグビー部に入部するもわずか4ヶ月にして胃カタルにより退部した。
その後早稲田大学雄弁会に入り、政治家を志すようになる。大学卒業後は水野成夫の手引きで産業経済新聞社に入社(初めは日本工業新聞に勤務し、のちに移籍)。
その後、今松治郎秘書を務めた後、1969年に衆議院選挙に初出馬で初当選。選挙運動中に、近隣の家の火災に遭遇し、決死の覚悟で家にとびこみ、仏壇を抱えて出て来たという。この行動(暴挙ともいわれる)のため、地元での人気が上がり、当初泡沫候補扱いだった新人が当選にいたったという。ちなみに、この選挙では同じ選挙区(旧石川1区)で竹下派七奉行の一人・奥田敬和も初当選しており、のちに二人のライバル関係は「森奥戦争」と呼ばれるようになる。
当選後は今松の属していた福田派(清和会)に入会。福田内閣では内閣官房副長官に就任し福田を補佐、1983年第2次中曽根内閣では文部大臣として初入閣し、以後自民党文教族の実力者として実力を付ける。しかし1988年のリクルート事件で2度目の入閣間近という時に一時謹慎を余儀なくされる。
福田派を継いだ安倍派では三塚博、塩川正十郎、加藤六月と並んで安倍派四天王の一人に称され、次代のリーダーへの地歩を固める。安倍死去後の三六戦争(三塚と加藤の後継者争い)ではいち早く三塚を支持。それからは党政調会長、通商産業大臣、党幹事長、建設大臣、党総務会長と重要役職を次々と歴任。