柳田 國男(やなぎた[1] くにお、1875年(明治8年)7月31日 - 1962年(昭和37年)8月8日)は日本の民俗学者である。福崎町名誉町民第1号。正三位勲一等。
目次
1 年譜
2 家族・親族
3 系譜
4 柳田民俗学の特徴
4.1 文献中心主義批判
4.2 柳田國男と歴史学
5 代表作
6 柳田批判
7 参考文献
8 脚注
9 関連項目
10 外部リンク
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年譜
1875年(明治8年)7月31日 - 兵庫県神東郡田原村辻川(現・神崎郡福崎町)に儒者・松岡操[2]、たけの六男として生まれる。松岡家は代々の医家
1884年(明治17年) - 一家で兵庫県加西郡北条町に転居
1885年(明治18年) - 高等小学校卒業 一年間、辻川の旧家三木家に預けられ、和漢の書籍を乱読する
1887年(明治20年) - 兄・鼎(かなえ)が医院を開いていた茨城県北相馬郡布川村(現・利根町)に移住する
1893年(明治26年) - 兄・鼎の転居に伴い千葉県南相馬郡布佐町(現・我孫子市)に移住する
1897年(明治30年) - 第一高等学校(第一高等中学校改称)卒業
1900年(明治33年)7月 - 東京帝国大学法科大学卒業(法学士)。農商務省農務局農政課に勤務。早稲田大学で「農政学」を講義する
1901年(明治34年)5月 - 柳田家の養嗣子として入籍する。養父直平(旧・飯田藩士)は大審院判事であった
1902年(明治35年)2月 - 法制局参事官に任官
1904年(明治37年)4月 - 柳田直平四女孝と結婚する
1907年(明治40年)2月 - 島崎藤村、田山花袋、小山内薫らとイプセン会を始める
1908年(明治41年)1月 - 兼任宮内書記官
1910年(明治43年)6月 - 兼任内閣書記官記録課長
1911年(明治44年)3月 - 南方熊楠との文通始まる
1913年(大正2年)3月 - 雑誌『郷土研究』を刊行
1914年(大正3年)4月 - 貴族院書記官長
1915年(大正4年)11月 - 京都における大正天皇の即位式に奉仕。この年、折口信夫と出会う
1919年(大正8年)12月 - 貴族院書記官長を辞任[3]
1920年(大正9年)8月 - 東京朝日新聞社客員
1924年(大正13年)4月 - 慶應義塾大学文学部講師となり民間伝承を講義
1946年(昭和21年)7月 - 枢密顧問官
1947年(昭和22年)3月 - 書斎に民俗学研究所を設立
1949年(昭和24年)
3月 - 日本学士院会員となる
4月 - 民間伝承の会を日本民俗学会と解消発足し、初代会長に就任
1951年(昭和26年)11月 - 文化勲章受章
1962年(昭和37年)8月8日 - 心臓衰弱のため死去、87歳没。戒名は永隆院殿顕誉常正明国大居士。墓所は神奈川県川崎市の春秋苑
没後、兵庫県福崎町に建設された柳田國男・松岡家顕彰会記念館の西隣に「自らの民俗学の原点」と評した生家は移築・保存された。蔵書は成城大学に寄贈され、同大学民俗学研究所の柳田文庫として活用されている。また東京都世田谷区成城にあった ⇒柳田國男邸は、長野県飯田市の ⇒飯田市美術博物館に移築された。