枢密院(すうみついん)は、国家の主権者(典型的には君主)の諮問機関である。
枢密院(すうみついん)は、中国歴代王朝の国家機関の一。主として軍制を掌った。「枢密院」の語源。→中国の節へ。
枢密院(すうみついん、Privy Council)は、イギリス国王の諮問機関。→イギリスの節へ。
枢密院(すうみついん)は、日本において1888年(明治21年)から1947年(昭和22年)まで存在した、天皇の諮問機関の一。→日本の節へ。
目次
1 中国
2 イギリス
3 日本
3.1 歴代枢密院議長・副議長
4 参考文献
5 関連項目
6 外部リンク
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中国における枢密院は、唐王朝(7世紀初めから10世紀初め)の中頃に生まれた機構で、主として軍制を掌った中央官庁である。軍政を統轄したが軍隊の指揮権はなかった。以後、五代の各王朝、遼、北宋、金、南宋、元と歴代王朝に継承され、明代に廃止された。
元王朝の枢密院は、行政の中書省、監察の御史台と並ぶ、1262年(中統3年)に設置された軍事を司る最高機関。名目上の長は枢密使であるが、枢密使は常に皇太子が兼職する名誉職とされたため、実務は知枢密院事が担った。
イギリス1837年、即位した日に枢密院会議を開催するヴィクトリア女王。
イギリスにおける枢密院は、イギリス国王の政治上の諮問機関で、 ⇒Privy Councilの訳語である。
その前身は、ノルマン朝以来存在した、国王の政治上の諮問機関として全貴族からなる封臣会議(ほうしんかいぎ)である。14世紀末ごろリチャード2世の時代に枢密院(Privy Council)の名称で呼ばれるようになり、現在に至っている。
枢密院は、形式的には行政の最高権限を有している。しかし、現在は枢密院の一委員会として誕生した内閣が、行政の実権を有している。
枢密院の現在の機能は、枢密院司法委員会傘下の自治領裁判所・植民地裁判所・領事裁判所および教会裁判所の有する海外領土からの上訴や宗教裁判など限定的なものである。司法委員会は、英国の最高裁判所である貴族院上訴委員会とともに英国の司法府を構成する。
枢密院議長は通常、内閣の閣僚の一員として、下院あるいは上院の院内総務の任務を果たす。
日本旧枢密院庁舎(東京都千代田区の皇居内)1946年(昭和21年)10月29日、「修正帝国憲法改正案」(日本国憲法案)を全会一致で可決した枢密院本会議の模様。
日本における枢密院は、枢密顧問(顧問官)により組織される天皇の諮問機関。1888年(明治21年)に憲法草案審議を行うため、枢密院官制に基づいて創設され、1889年(明治22年)に公布された大日本帝国憲法でも天皇の最高諮問機関と位置付けられた。その後、1947年(昭和22年)に日本国憲法が施行されたことにより廃止された。略称は枢府(すうふ)。初代議長は、伊藤博文。議長は枢相(すうしょう)とも呼ばれた。
大日本帝国憲法第56条では「樞密顧問ハ樞密院官制ノ定ムル所ニ依リ天皇ノ諮詢ニ應ヘ重要ノ國務ヲ審議ス」と規定された。憲法問題も扱ったため、「憲法の番人」とも呼ばれた。
枢密院は議長1名、副議長1名、顧問官24〜28名で組織した。任用資格は40歳以上、元勲練達の者を選ぶとされていた。このほか、国務各大臣は顧問官として議席を有し、表決に加わった。東京にいる成年の親王も会議に参加した。1946年、日本国憲法の草案を審議していた枢密院に若き日の三笠宮崇仁親王が議員として参加しており、新憲法の下でも依然として皇族の人権が制約されることに抗議する内容の意見書を提出しようとして握りつぶされたエピソードが残る。
枢密院への諮詢事項は次のとおり。
皇室典範・皇室令において枢密院の権限に属するとされている事項
憲法の条項に関する草案と疑義
憲法附属法令に関する草案と疑義
枢密院の官制と事務規程の改正
緊急勅令・緊急財政処分
国際条約の締結
戒厳の宣告
教育に関する重要勅令
行政各部の官制など官規に関する勅令
栄典・恩赦の基礎に関する勅令
その他、特に諮詢された事項
枢密院は施政に関与することができず(枢密院官制第8条)、大臣以外と公務上の交渉を行うことを禁じられていた(枢密院事務規程第3条)。
枢密院と政府の政策が対立した場合、話し合いによりどちらかが譲歩するケースが多かったが、1927年(昭和2年)には台湾銀行救済のための第1次若槻内閣による緊急勅令案を19対11で否決し内閣を総辞職に追い込んだ。これは枢密院によって内閣が倒れた唯一の例である。
とはいえ、枢密院で議案が否決されたからといって内閣が総辞職しなければならないという規定はなく、この場面で辞職に踏み切ったのは若槻の性格の弱さによるものと言われる。
たとえば、似たような問題として、1930年(昭和5年)、浜口内閣におけるロンドン海軍軍縮条約の批准問題がある。