林家ペー
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2019年、赤羽馬鹿祭りで妻・林家パー子(右)と
本名佐藤 嘉彦(よしひこ)
生年月日 (1941-11-29) 1941年11月29日(82歳)
出身地大阪府大阪市浪速区
血液型B型
言語日本語
方言東京弁
最終学歴浪速高等学校
師匠初代林家三平
林家たい平(落語家として)
コンビ名林家ペー・パー子
相方林家パー子
芸風漫談
事務所P&P企画
活動時期1964年 -
過去の代表番組元祖どっきりカメラ
お笑いウルトラクイズ
他の活動写真家
配偶者林家パー子
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林家 ペー(はやしや ペー、本名:佐藤 嘉彦、1941年昭和16年〉11月29日[1] - )は、日本タレント漫談家写真家落語家。自らが運営するP&P企画所属。また漫談家として落語協会所属。

落語家としての高座名は林家たいぺー。
来歴唐花菱は林家三平一門の定紋であり林家こん平に移門しても同じである。

大阪府大阪市浪速区日本橋3丁目生まれ、同市阿倍野区育ち。ただし、小学校は旧南区(現:中央区)の大阪市立精華小学校(現在は廃校し、大阪市立南小学校に統一)中学校は同中央区大阪市立南中学校(旧校舎は現:アメリカ村ビッグステップ)出身。浪速高等学校卒業。大阪スタヂアムの近く(当時の実家は裕福で、ヤマギワソフト大阪店〈現:ホテルヒラリーズ〉が建つ前の土地に建っていた[2])で育った。

幼い時から江戸っ子の粋に憧れて上京し[3]、当時、非常に人気が高かった初代林家三平への弟子入りを目指す。「いきなり弟子入りを頼んでも断られるだろう」との考えにより[4]、上京後は思いついたギャグ(ダジャレなど)を何度も三平宛に投書し続けた。数日後この努力が三平に認められ、ぺー宛に「今度自宅に遊びにいらっしゃい」との手紙が届き[4]、入門を受け入れられた。

当初から落語ではなく、立ち高座でギター漫談を主に演じていた。三平全盛期のいわゆる「三平落語」の高座で、何度かバックギタリストとして共演しており、三平からはいくつかの珍芸も伝授された。また、ギターは伊東四朗から教えられた[注 1]。2021年現在も落語協会の定席で色物(浅草演芸ホールのプログラムなどでは「余談漫談」と記されている)として定期的に上がり続けており、同協会の色物芸人の香盤では三代目林家正楽の次に位置している(2021年10月現在)。

2008年には「落語もやってみたい」と考えを改め、一門の後輩である林家たい平[注 2]に落語家として弟子入りし、「林家たいぺー」の高座名をもらう。2011年ごろから「あくびの稽古」「時そば」などを演じている。ただし、落語協会では引き続き漫談家として登録されている。
芸人として
芸歴

1964年10月15日[4] - 東京オリンピック(1964年)真っ只中の頃に初代林家三平に入門。三平の付き人を6年間ほど務めた[4]。当初「ペー平」と命名されたが、のちに「ぺー」となった[3]


1970年頃からスーツ姿で高座で歌う師匠の伴奏役としてギターを弾き始め(最初のギャラは500円)、ギター漫談家として活動する[5]


1972年3月30日[6] - 林家パー子と結婚。その後徐々に夫婦揃っての仕事がたくさん舞い込むようになった[4]


2011年 - 2007年にテリー伊藤が落語に挑戦した[7]ことに感化されて落語を始めた[3]

芸風・特技

該博な知識と洒脱な発想による余談漫談で人気とされる
[4]

大阪出身者であるが、いわゆる大阪弁は基本的に使わず、もっぱら東京弁で話すが、イントネーションは関西弁。

芸能界屈指の記憶力の持ち主で、数多くの有名人の生年月日を完璧に記憶している(本人曰く「誕生日覚え」)で知られる[3]。各地の郵便番号も多く記憶している。

即興のダジャレ(隣にいるパー子が爆笑するのがお約束)。

「これは余談ですが‥」「くしくも‥」が口癖。

有名人との写真を撮りまくることでも知られる(詳しくは後述)。

芸名について

初代林家三平一門の中で数少ない、名前に「平」の字が付かない弟子である。来歴にもある通り、元々、師匠である三平から一度「林家ペー平(ペーぺー)」という芸名をもらった。しかし、1963年に師匠の友人である近江俊郎宅を師匠ら数人と訪れた際、そこにいた近江の友人である占い師に『林家ペー平』で姓名判断してもらった。すると「素晴らし過ぎる名前だ。いずれ師匠を食ってしまうほどの大物になるだろう」と告げられたが、小心者である初代三平(ペー本人がそう語っている)が弟子であるペーの台頭を恐れ、「平」を取ってしまったためである。

名付け親の初代三平が他界したため、「ペー」の書体がひらがなかカタカナかは本人にも分からない。ペー本人は「師匠に聞く前に他界されてしまった」と語っている。番組などで「横書きの時はカタカナ、縦書きの時はひらがな」と時折語っている。
エピソード
妻・パー子

もともと女流落語家として単独に活動していた林家パー子と、三平一門で知り合ったあと兄弟子であるペーと結婚に至った。普段は、パー子のことを本名である粋子に由来し「粋(すい)ちゃん」と呼ぶ。

結婚時ギター漫談家だったペーは、ワンステージのギャラが3000円でまだまだ食べていけない状態で、当時売れっ子タレントのパー子との結婚は今で言う格差婚だった[注 3]

2人の名前を並べると「ペー・パー」(=ペーパー)となり、俗に「ペーパーさん」と呼ばれるが、狙って名付けたわけではなく、全くの偶然である[6]。 ちなみに結婚披露宴の引き出物は、三平の妻・海老名香葉子のアイディアによりトイレットペーパーだった[6]

寄席の高座も二人で務めているが、決して夫婦漫才師ではない[4]。パー子が落語協会に加盟していないこともあり、香盤には「漫談・ペー」としか書かれておらず、パー子はペーの漫談の後見役[注 4]として出演している。ペーは「よく世間から誤解されやすいけど、あたしらは漫才コンビじゃないから二人の持ちネタもない」としている[注 5]
写真撮影に関して

夫妻が最初に撮影した有名人は郷ひろみで、パー子との2ショットを撮った。


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