松平定信凡例
時代江戸時代後期
生誕1759年1月15日(宝暦8年12月27日)
死没1829年6月14日(文政12年5月13日)
改名田安賢丸、松平定信
別名たそがれの少将
諡号楽翁、花月翁、風月翁、白河楽翁
戒名守国院殿崇蓮社天誉保徳楽翁大居士
墓所東京都江東区白河の道本山東海院霊巌寺
官位従五位下、上総介、従四位下、侍従・越中守
左近衛権少将、贈正三位
幕府江戸幕府老中首座・将軍輔佐
主君徳川家斉
藩陸奥白河藩主
氏族徳川氏(御三卿田安家)→久松松平氏
父母父:田安宗武、母:山村氏の娘、義母:近衛通子
(御簾中近衛氏・宝蓮院殿)、養父:松平定邦
兄弟誠姫、淑姫、仲姫、徳川治察、節姫、松平定国
脩姫、松平定信、種姫、定姫
妻正室:松平定邦の娘、継室:隼姫(加藤泰武の娘)
側室:貞順院
子松平定永(長男)、真田幸貫(次男)
真田幸栄、福姫(松平定則正室)
清昌院(諏訪忠恕正室)、保寿院(加藤泰済正室)
娘(牧野忠鎮正室のち内藤信敦継室)
蓁(松浦熙正室)、娘(松平輝健正室)
養女(加藤泰候娘、松平信志正室)
養女(真田幸貫娘、朽木綱條継室)
特記
事項久松松平氏は御連枝ではなく、譜代の家柄である
ので注意されたい。ただし、後に親藩扱いとなる。
松平 定信 (まつだいら さだのぶ)は、江戸時代の大名、政治家。陸奥白河藩の第3代藩主。江戸幕府第8代将軍・吉宗の孫に当たる。定綱系久松松平家第9代当主。
目次
1 経歴
1.1 幻の第11代将軍
1.2 白河藩主就任
1.3 寛政の改革
1.4 その後
2 人物
3 官職位階履歴
4 関連項目
5 脚注
6 参考文献
7 関連作品
//
宝暦8年(1758年)12月27日、御三卿の1つである田安徳川家の当主・田安宗武の七男として生まれる。
幼少期から聡明で知られており、田安家を継いだ兄・徳川治察が病弱かつ凡庸だったため、一時期は田安家の後継者、そしていずれは第10代将軍・徳川家治の後継を目されていたとされる。しかし、田沼意次による田沼政治が行われていた当時から、田沼政治を「賄賂政治」として批判したため存在を疎まれていた。田沼の権勢を恐れた一橋家当主・一橋治済によって、安永3年(1774年)に久松松平家の庶流・陸奥白河藩の第2代藩主・松平定邦の養子とされてしまった。
一時期は将軍世子とまで言われた定信は、このことにより田沼意次を激しく憎み、後に田沼暗殺を謀ったとまで言われる一方で、自らも幕閣入りを狙って、田沼に賄賂を贈っていたことは、有名な逸話・伝説である。
白河藩主に就任したのは、天明の大飢饉の最中である天明3年(1783年)であるが、それ以前から養父・松平定邦に代わって藩政を代行していたと言われている。定信は天明の大飢饉で苦しむ領民を救うため、自らが率先して倹約に努め、さらに領民に対する食料救済措置を迅速に行なったため、白河藩で天明の大飢饉による餓死者は出なかったと言われている。特に東北地方における被害が大きかった天明の大飢饉で、これは異例のことと言ってもよい。ただし、食料救済措置は市場の米を買い漁る方法で行われたため、米価の急騰及び他の藩での餓死者の増加をもたらした点については留意が必要である。
庶民のための学校も設置し、民衆に学問への道を開いてもいる。
天明の大飢饉における藩政の建て直しの手腕を認められた定信は、天明6年(1786年)に徳川家治が死去して田沼意次が失脚した後の天明7年(1787年)、徳川御三家の推挙を受けて、幼少であった第11代将軍・徳川家斉のもとで老中首座・将軍補佐となる。そして幕閣から旧田沼系を一掃粛清し、祖父・吉宗の享保の改革を手本に寛政の改革を行い、幕政再建を目指した。