松前藩(まつまえはん)は、渡島国津軽郡(旧蝦夷地)現在の北海道松前郡松前町に居所を置いた藩である。藩主は江戸時代を通じて松前氏であった。
後に城主となり同所に松前福山城を築く。居城の名から福山藩とも呼ばれる。慶応4年、居城を領内の檜山郡厚沢部町の館城に移し、明治期には館藩と称した。松前氏の家格は外様大名の1万石格、幕末に3万石格となった。
目次
1 藩史
1.1 17世紀まで
1.2 18世紀
1.3 19世紀
1.4 館藩
1.5 館県
2 歴代藩主
2.1 松前家
3 居城
4 関連項目
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松前氏は、もと蠣崎氏、さらにその前は武田氏の出で、戦国時代に武田信廣が現在の渡島半島の南部に支配を確立した。豊臣秀吉に臣従し、慶長4年(1599年)に徳川家康に服して蝦夷地に対する支配権を認められた。江戸初期には蝦夷島主として客臣扱いであったが、五代征夷大将軍徳川綱吉の頃に交代寄合に列して旗本待遇になる。さらに、享保4年(1719年)より1万石格の柳間詰めの大名となる。
当時の北海道では米がとれなかったため、松前藩は無高の大名であり、1万石とは後に定められた格にすぎない。慶長9年(1604年)に家康から松前慶廣に発給された黒印状は、松前藩に蝦夷(アイヌ)に対する交易独占権を認めていた。蝦夷地には藩主自ら交易船を送り、家臣に対する知行も、蝦夷地に商場(あきないば)を割り当てて、そこに交易船を送る権利を認めるという形でなされた。松前藩は、渡島半島の南部を和人地、それ以外を蝦夷地として、蝦夷地と和人地の間の通交を制限する政策をとった。江戸時代のはじめまでは、アイヌが和人地や本州に出かけて交易することが普通に行なわれていたが、しだいに取り締まりが厳しくなった。
松前藩の直接支配の地である和人地の中心産業は漁業であったが、鰊が不漁になったため、蝦夷地への出稼ぎが広まった。城下の松前は天保4年(1833年)までに人口一万人を超える都市となり、繁栄した。
藩の直接統治が及ばない蝦夷地では、寛文9年(1669年)にシャクシャインの戦いに勝って西蝦夷地のアイヌの政治統合の動きを挫折させた。
18世紀前半から、松前藩の家臣は交易権を商人に与えて運上金を得るようになり、場所請負制が広まった。18世紀後半には藩主の直営地も場所請負となった。請け負った商人は、出稼ぎの日本人と現地のアイヌを働かせて漁業に従事させた。これより松前藩の財政と蝦夷地支配の根幹は、大商人に握られた。商人の経営によって、鰊、鮭、昆布など北方の海産物の生産が大きく拡大し、それ以前からある熊皮、鷹などの希少特産物を圧するようになった。
生活物資の中心となるコメは、対岸の弘前藩から独占的な供給を受ける取り決めが結ばれていたが、1782年から深刻化した天明の大飢饉の期間は輸送が途絶、大坂からの回送船によるコメの輸送が行れ、益々西日本側との結びつきを深めてゆく。
漁場の拡大にともない、日本人は東蝦夷地にも入り込んだが、その地のアイヌは自立的で、藩の支配は強くなかった。この頃西でも東でも商人によるアイヌ使役がしだいに過酷になっていた。請負商人によるアイヌ首長毒殺に対して、東蝦夷では寛政元年(1789年)にクナシリ・メナシの戦いが起こった。
18世紀半ばには、ロシア人が千島を南下してアイヌと接触し、日本との通交を求めた。松前藩はロシア人の存在を無視し、秘密にした。ロシアの南下を知った幕府は、天明5年(1785年)から調査の人員をしばしば派遣し、寛政11年(1799年)藩主松前章廣から蝦夷地の大半を取り上げた。すなわち1月16日に東蝦夷地の浦川から知床までを7年間上知することを決め、8月12日には箱館から浦川までを取り上げて、これらの上知の代わりとして武蔵国埼玉郡に5千石を与え、各年に若干の金を給付することとした。
享和2年(1802年)5月24日に7年間に及ぶ上知の期間を迎えたが、蝦夷地の返還は行われなかった。文化4年(1807年)2月22日に西蝦夷地も取り上げられ、松前藩は陸奥国伊達郡梁川に9千石で転封となった。なお、この際に藩主であった松前道広が放蕩を咎められて永蟄居を命じられた(一説には密貿易との関係が言われているが、当時の記録には道広が遊女を囲ったとする風聞に関する記事が出ており、放蕩説が有力である)。
文政4年(1821年)12月7日に、幕府の政策転換により松前藩は蝦夷地一円の支配を戻され、松前に復帰した。これと同時に松前藩は北方警備の役割を担わされることにもなった。嘉永2年(1849年)に幕府の命令で松前福山城の築城に着手し、安政元年(1854年)10月に完成させた。