東西教会の分裂
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東西教会の分裂(とうざいきょうかいのぶんれつ)とは、キリスト教教会が、ローマ教皇を首長とするカトリック教会西方教会)と、東方の正教会とに二分されたことをいう。多くのシスマ(分裂)の中でも史上最大規模であったことから大シスマとも呼ばれるが、「大シスマ」という用語は、14世紀から15世紀教会大分裂を指して使われることも多い。

分裂の年は、世界史教科書等の一般において1054年のこととされる。

しかし、395年ローマ帝国が東西に分割された後、476年西ローマ帝国滅亡を経て、東西両教会がそれぞれの地域情勢に適応する形で長い年月の間、独自に発展していった結果としてこの年に分裂が決定的になったのであって、分裂という現象自体はすでに数百年に及んで教義の解釈や典礼方式の違いとして顕在化していたのであり、1054年を東西教会分裂の年とする事の妥当性に疑問がある。一応、1054年の「相互破門」が「決定的」であったとされるが、本当に1054年の出来事が「決定的」であったのか否かについても疑義が存在する(後述)。

また、東西教会の分裂と和解の問題には、そもそも分裂とは何か、和解とは何を以て和解とするのかといった問題のレベルで様々な見解が発生するのであり、この点でも、「1054年に分裂」という区切りにつき、「指導者同士の相互破門」を「分裂」と看做すという、一定のバイアスが掛かる事は避けられない。?キリスト教諸教派の成立の概略を表す樹形図。更に細かい分類方法と経緯があり、この図はあくまで概略である事に注意。しかも後述するように、1054年の「相互破門」が東西教会の分裂として決定的なものであったかどうかには疑問符が付く。
目次

1 分裂の経緯

1.1 11世紀までの東西教会の差異

1.2 1054年の「教皇と総主教の相互破門」という事件

1.3 1054年から15世紀まで・第四回十字軍

1.4 フィレンツェ公会議での東西教会合同不成立とその後

1.5 近現代における差異の拡大と対立


2 近代以降:和解への道のり

2.1 「相互破門」の解消

2.2 東西教会両首脳が同席した聖体礼儀


3 東西教会分裂の現状

3.1 「分裂とは何か」「和解とは何か」の問題

3.2 現況:緊張持続と緊張緩和


4 脚注

5 関連事項

6 参考文献

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分裂の経緯


11世紀までの東西教会の差異

一般に東西両教会が分裂したとされるのは「1054年ローマ教皇コンスタンディヌーポリ総主教(コンスタンティノープル総主教)の相互破門」と言われる事件であるが、これ以前にも、

ローマ教皇(ローマ司教)の地位(教皇首位権問題

典礼奉神礼)の形式の差異の広がり

フィリオクェ問題

助祭司祭も妻帯が認められなかった西方に対し、輔祭司祭には妻帯が認められていた東方という、聖職者の妻帯についての考え方の差異

聖像破壊論争

東ローマ帝国の事前承認を経ないローマ教皇によるカール大帝の戴冠(偽書『コンスタンティヌスの寄進状』も参照)

フォティオスの分離

スラヴ語奉神礼(典礼)の是非

モラヴィアおよびルーシを、ローマコンスタンディヌーポリのいずれが管轄するか

等のさまざま問題をめぐり、両教会の間には数百年間にわたる論争と差異が既に顕在化していた。従って、東西教会の分裂が11世紀になって両教会の指導者の思惑によって突如発生させられたかのように考えるのは大きな誤りである。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Smilegreen