東晋(とうしん 317年 - 420年)は、中国の西晋王朝が劉淵の漢に滅ぼされた後に、司馬睿によって江南に建てられた晋の亡命王朝である。西晋に対して東晋と呼んで区別する。
目次
1 概要
2 東晋の皇帝
3 関連項目
4 外部リンク
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306年の永嘉の乱により洛陽が陥落し、懐帝が捕虜になったことで事実上西晋は滅びた。
晋の琅邪王であった司馬睿は、江南の建業(現在の南京)に逃れ、琅邪の豪族王氏王導の力を借りてこの地に東晋を建国した。 政権は、約100年、君主で11代にわたり、華北から逃れてきた北来の勢力と江南土着の豪族勢力との協力によって運営された。 現代とは異なり、当時、華南は中国大陸の中では割合人口が希薄な後進地域だったが、華北からの避難民に対して初年は免税にするなど税制上の猶予を設けるなどして、積極的に流民の受け入れと未開地の開墾を奨励した結果、元々湿潤で水資源の豊富な地域だったこともあり、経済的には当時の華北に互角以上に対抗可能なほどに繁栄した。
政権中期には、一時的に華北を統一した前秦の苻堅に公称100万とも112万ともいわれる大軍で攻撃されるが(?水の戦い)、幸い勝つことが出来た。後には経済的復興と華北の混乱を利用して、中原奪回作戦も開始し、一時的に桓温が洛陽を、劉裕は長安と洛陽の二大旧都を占領するなどしたが、基本的に彼らの行動は人気取りの域を出ず、永続的な支配にはいずれも失敗した。結局、悲願であった大陸統一は成らず、占領地も異民族王朝に取り返されてしまっている。
また、首都と国境が非常に近いことから武装勢力の攻撃を受けることもあり、王権は安定しなかった。328年の蘇峻の乱の時には、放火により首都が炎上する事態にまでなってしまった。(後に反撃に成功、蘇峻は平定)、この時、『晋書』蘇峻伝によれば、百官が捕虜となり、首都一体は大規模な略奪を受け、士人・宮女らが衣服を剥がされて泣き叫ぶなどの惨状を呈し、「残酷無道」と記されている。 他にも、少なくとも二度の大規模な反乱が起き、324年には大貴族王敦の反乱軍の前に首都が陥落、399年には孫恩が住民に加えて行政関係者の一部までも信者に取り込み、大規模な反乱(孫恩の乱)を起こし、江南一帯を荒らしまわるなどしている。
人事としては、前政権の西晋に同じく、全般的に門閥貴族が幅を利かせる傾向があり、常に貴族階級が要職を独占し、中でも王氏、謝氏、桓氏などは力を持ったが、反面、西晋時代の永嘉の乱以降、現職皇帝二人を含む皇族司馬氏の大半が異民族に殺害されるなどした結果、皇室の権威は政権発足当初より失墜していて、皇帝の権力は微弱だった。
軍事面では、国防上の必要から、首都周辺と荊州北部には二大駐屯地が生成され、一方は北府、一方は西府と呼ばれたが、やがて遠征の成功や反乱の鎮圧を経て共に政治的に強い影響力を持つようになり、彼らによって皇帝の存廃が決まることもあった。
末期には、クーデターを企画した西府軍の領袖桓玄が誅殺された後に、北府軍を掌握する劉裕の力が強くなり、420年に劉裕に簒奪され、宋が建てられて東晋は滅んだ。
東晋の皇帝晋系図(丸囲み数字は西晋の即位順、ローマ数字は東晋の即位順)
廟号諡号姓名在位年号
中宗元帝司馬睿317年 - 322年建武 317年-318年
大興 318年-321年
永昌 322年-323年
粛宗明帝司馬紹322年 - 325年太寧 323年-326年