東大寺
大仏(国宝、盧舎那仏)
所在地奈良県奈良市雑司町406-1
位置 ⇒北緯34度41分11.35秒
東経135度50分27.75秒
山号なし
宗派華厳宗
寺格大本山
本尊盧舎那仏(国宝)
創建年8世紀前半
開基聖武天皇
別称金光明四天王護国之寺
札所等南都七大寺1番(大仏殿)
法然上人二十五霊跡11番(指図堂)
神仏霊場 巡拝の道 第14番
文化財金堂(大仏殿)、南大門、盧舎那仏(大仏)ほか(国宝)
中門、石造獅子ほか(重要文化財)
表・話・編・歴
東大寺(とうだいじ)は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の仏教寺院である。現別当(東大寺別当、住職)は219世・上野道善。
「金光明四天王護国之寺」(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とし、開山(初代別当)は良弁僧正(ろうべんそうじょう)である[1]。
奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約100メートル)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。現存する大仏は、台座などの一部に当初の部分を残すのみであり、現存する大仏殿は江戸時代、18世紀初頭の再建で、創建当時の堂に比べ、間口が3分の2に縮小されている。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の本山にあたる「総国分寺」と位置づけられた。なお、奈良の大仏については、「東大寺盧舎那仏像」の項を参照。
目次
1 歴史
1.1 創建と大仏造立
1.2 東大寺と橘奈良麻呂
1.3 奈良時代・平安時代の東大寺
1.4 中世以降
2 伽藍
3 文化財
3.1 史跡
3.2 国宝
3.3 重要文化財
4 年中行事
5 社会事業
6 ギャラリー
7 アクセス
8 補注
9 参考文献
10 関連項目
11 外部リンク
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詳細は東大寺の歴史を参照(大仏および大仏殿の歴史については、別項目「東大寺盧舎那仏像」を参照)
東大寺の起源は大仏造立よりやや古く、8世紀前半には大仏殿の東方、若草山麓に前身寺院が建てられていた。東大寺の記録である『東大寺要録』によれば、天平5年(733年)、若草山麓に創建された金鐘寺(または金鍾寺(こんしゅじ))が東大寺の起源であるとされる。一方、正史『続日本紀』によれば、神亀5年(728年)、第45代の天皇である聖武天皇と光明皇后が幼くして亡くなった皇子の菩提のため、若草山麓に「山房」を設け、9人の僧を住まわせたことが知られ、これが金鐘寺の前身と見られる。金鐘寺には、8世紀半ばには羂索堂、千手堂が存在したことが記録から知られ、このうち羂索堂は現在の法華堂(=三月堂、本尊は不空羂索観音)を指すと見られる。天平13年(741年)には国分寺建立の詔(みことのり)が発せられ、これを受けて翌天平14年(742年)、金鐘寺は大和国の国分寺と定められ[2]、寺名は金光明寺と改められた。
大仏の鋳造が始まったのは天平19年(747年)で、この頃から「東大寺」の寺号が用いられるようになったと思われる。なお、東大寺建設のための役所である「造東大寺司」が史料に見えるのは天平20年(748年)が最初である。
聖武天皇が大仏造立の詔(みことのり)を発したのはそれより前の天平15年(743年)である。当時、都は恭仁京(くにのみや 京都府相楽郡加茂町)に移されていたが、天皇は恭仁京の北東に位置する紫香楽宮(しがらきのみや 現・滋賀県甲賀市信楽町)におり、大仏造立もここで始められた。聖武天皇は短期間に遷都を繰り返したが、2年後の天平17年(745年)、都が平城京に戻るとともに大仏造立も現在の東大寺の地であらためて行われることになった。この大事業を推進するには幅広い民衆の支持が必要であったため、朝廷から弾圧されていた行基を大僧正として迎え、協力を得た。
難工事の末、大仏の鋳造が終了し、天竺(インド)出身の僧・菩提僊那を導師として大仏開眼会(かいげんえ)が挙行されたのは天平勝宝4年(752年)のことであった。