東京奠都(とうきょうてんと)は、明治維新のとき江戸が東京とされ、都として定められたこと。京都との東西両京としたうえで、1869年(明治2年)に政府を京都から東京に移した。東京遷都、事実上の東京遷都ともいう(用語については後述#奠都と遷都の語義参照)。
目次
1 東京奠都までの経緯
1.1 遷都の気運
1.2 大久保利通の大坂遷都案
1.3 大坂行幸と江戸城の開城
2 江戸から東京へ
2.1 大木・江藤の東西両都案
2.2 徳川氏の移封と東京の誕生
2.3 東幸と万機親裁の宣言
3 東西両京の狭間で
3.1 早期還幸の慎重論
3.2 東京への再幸
3.3 首都機能の移転
3.4 京都還幸の延期
4 その後
5 奠都と遷都の語義
6 脚注
7 関連文献
8 関連項目
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幕末の京都は、大政奉還や王政復古により、政治の中心地となっていったが、京都の新政府内部から、新たに天皇親政を行なうにあたって遷都を行おうという声があがっていた。しかし、この時点では江戸の情勢が未だ安定しておらず、主に大坂がその地として意識されていた。
鳥羽・伏見の戦い直後の明治元年(慶応4年)1月17日(1868年2月10日)、参与・大久保利通は、総裁・有栖川宮熾仁親王に対して、天皇が石清水八幡宮に参詣し、続いて大坂行幸を行なって、その後も引き続き大坂に滞在することを提言した。これにより、朝廷の旧習を一新して外交を進め、海軍や陸軍を整えることを図るとする。さらに同年1月23日には、太政官の会議において浪華遷都(大坂遷都)の建白書を提出するに至った。しかし、遷都を行えば千年の都である京都を放棄することとなるとして、これに抵抗の大きい公卿ら保守派の激しい反対を受け、同年1月26日に廃案となった。続いて大久保は、副総裁・岩倉具視を通して、保守派にも受け入れられやすい親征のための一時的な大坂行幸を提案し、同年1月29日これが決定した。
大坂行幸の発表により、これが遷都に繋がるのではないかと捉えた公家や宮中・京都市民から、反対の声が高まった。そのため、太政官も同時に移すという当初の計画は取り下げられた。明治元年3月21日(1868年4月13日)、天皇が京都を出発。副総裁・三条実美ら1,655人をともない、同年3月23日に大坂の本願寺津村別院に到着、ここを行在所とした。天皇は天保山で軍艦を観覧するなどして、40日余りの大坂滞在の後、同年閏4月8日京都に還幸した。
この間、遷都しなくても衰退の心配がない浪華(大坂)よりも、世界の大都市のひとつであり、帝都にしなければ市民が離散してさびれてしまう江戸のほうに遷都すべきだとする前島密による「江戸遷都論」が大久保に届けられた。同年4月11日には江戸城が無傷で開城されるなど、注目が大坂から江戸に移っていった。
明治元年(1868年)閏4月1日、大木喬任(軍務官判事)と江藤新平(東征大総督府監軍)が、佐賀藩論として「東西両都」の建白書を岩倉に提出した。これは、数千年王化の行き届かない東日本を治めるため江戸を東京とし、ここを拠点にして人心を捉えることが重要であるとし、ゆくゆくは東京と京都の東西両京を鉄道で結ぶというものだった。この意見も大久保が提案した「大坂行幸」と同じく、遷都ではないため保守派にも比較的受け入れられやすい案であった。
江戸に皇居を置き東京とするという構想は、江戸時代後期の経世家である佐藤信淵が文政6年(1823年)に著した『混同秘策』に既に現われており、これに影響を受けて大久保利通も東京奠都を建言したという[1][2]。
明治元年(1868年)5月24日、徳川氏が江戸から駿府70万石に移されることが決まると、大木・江藤の東西両都案も決され、政府は同年6月19日、参与・木戸孝允と大木に江戸が帝都として適しているかの調査にあたらせた。