村上藩(むらかみはん)は越後国に存在した藩。藩庁は村上城(新潟県村上市)。
目次
1 概要
2 歴代藩主
2.1 村上家
2.2 堀家(直政系)(1618-1642)
2.3 本多家(忠勝系)
2.4 松平(越前)家
2.5 榊原家
2.6 本多家(忠勝系・分家)
2.7 松平(長沢・大河内)家
2.8 間部家
2.9 内藤家 (信成系)
3 関連項目
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上杉謙信の時代、村上の地は謙信配下の勇将・本庄繁長が領していた。
慶長3年(1598年)5月、上杉景勝が豊臣秀吉の命で会津に移封された後、堀秀治が越後の国主として春日山城に入った。このとき、秀治の与力大名として村上頼勝(義明とも)が加賀国小松より9万石で入ったのが、村上藩の始まりである。頼勝は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与して越後に在国し、西軍に与した景勝が煽動して起こした越後一揆を鎮圧した戦功により、戦後、徳川家康から所領を安堵された。頼勝は村上城や城下町の拡張工事を行ない、領内の検地も実施して藩の支配体制を固めた。しかし元和4年(1618年)4月、頼勝の家督を継いだ養嗣子、忠勝が家中騒動を理由に改易され、丹波国篠山の松平康重に預けられた。これは一説に、5年前に起こった大久保長安事件に連座してのことであるとも言われている。
代わって越後蔵王堂から堀直寄が10万石で入る。直寄は、村上城の更なる拡張や城下町の整備、領内の産業育成に務めたが、将軍家から脇備えを命じられていたこともあり、過大な常備兵力を維持する必要に迫られていた。そのため、領内には苛酷な検地を実施し、幕府に対しては、10万石の内高を17万石であると過大申告している。しかし寛永15年(1638年)7月、直寄の長男・堀直次が直寄に先立って死去。翌年6月29日に直寄も死去したため、堀氏の家督は直次の子・堀直定が継いだ。このとき、3万石が加増されるが、弟の堀直時に加増分をそのまま分与している。ところが直定も寛永19年(1642年)3月1日にわずか7歳で早世。後継ぎに直時を擁立する動きもあったが認められず、堀氏は無嗣断絶となり、村上藩は廃藩となった。なお、直時の系統はその後村松藩として存続している。
正保元年(1644年)3月、遠江国掛川藩より「家康に過ぎたるもの」として有名な本多忠勝の孫に当たる本多忠義が10万石で入り、村上藩が再び立藩した。ところが忠義はわずか5年後の慶安2年(1649年)6月、陸奥国白河藩に移封された。
代わって結城秀康の孫に当たる松平直矩が、播磨国姫路藩より15万石で入る。直矩は城郭の大改築や城下町の拡張工事を行なうなどし、村上藩の最盛期を現出した。しかし、その費用の捻出のためか、領内の検地を過酷に実施。百姓の逃散などが続出している。しかし直矩も18年後の寛文7年(1667年)6月に旧領・姫路に戻された。
入れ替わりで姫路より榊原政倫が入る。同年10月、天守三層櫓が落雷のために焼失し、以後は天守が造営されることは無かった。政倫は天和3年(1683年)2月27日に死去。代わって養嗣子の榊原政邦が後を継いだ。宝永元年(1704年)5月28日、政辰は姫路に移封され、入れ替わりで姫路より本多忠孝が15万石で入った。ところが忠孝は一度も村上城に入ることも無く、宝永6年(1709年)9月13日に早世した。忠孝には嗣子が無く、本来なら本多氏は断絶となるところであったが、本多氏は忠勝以来の名族であるということから、幕府の計らいにより一族の本多忠良が後を継ぐことで家名存続が認められた。ただし、所領は15万石のうち5万石のみとされたのである。このため、村上藩では多くの家臣を抱えきれなくなり、侍と足軽合わせて430名ほどをリストラしている。忠良は翌宝永7年、三河国刈谷藩に移封となった。代わって上野国高崎藩より松平輝貞が7万2,000石で入った。輝貞は第5代将軍・徳川綱吉のもとで活躍した人物だが、代替わりして徳川家宣が第6代将軍になると失脚し、この地に移されたのである。村上越訴事件は、この輝貞の時代に起こっている。しかし将軍が徳川吉宗になると、輝貞は復権を許されて享保2年(1717年)2月、旧領の高崎に移された。
そして、5万石で新たに入ったのは家宣とその子・徳川家継の時代に新井白石と共に権勢を誇った間部詮房である。