李典
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李典(りてん、生没年不詳)は、中国後漢末の武将で、曹操に仕えた。字は曼成。子は李禎。


略歴

山陽郡鉅野県の人。謙虚な人物で、若い頃は武芸よりも学問を好んだという。

従父の李乾は曹操の下へ乗氏県から馳せ参じ、数々の戦いに参戦して、武功を立てた。李乾は呂布の武将の薛蘭李封から帰順の催促を受けたが、断固として拒んだために、薛蘭・李封に殺害された。李乾の子の李整が後を継ぎ、武功を立て青州刺史になった。李整が亡くなると李典が李整の軍を率いた。李典は官渡の戦いでは食料・絹などを曹操軍に輸送し供給した。

劉表配下の劉備が侵攻してきた時、夏侯惇の配下として戦った。戦いの最中、劉備が突然陣営を焼き払い退却したため、夏侯惇は追撃の好機と見た。李典はこれを劉備の策であるとして諫めたが、夏侯惇は聴き容れず追撃した。果たして夏侯惇は劉備の伏兵に遭い敗北したが、李典が救援に赴いたため撤退することができた(これが『演義』の博望坡の戦いの原型となっている)。

高幹が壺関で挙兵すると楽進と共に討伐した。また海賊の管承を楽進と共に破り、捕虜将軍・都亭侯に昇進した。

乗氏から1万3000の一族郎党を魏郡?県に移住させ、破虜将軍に昇進した。

李典・張遼・楽進は元来不仲であったが、215年合肥の戦いでは、国家の大事に私情は差し挟まないとして、協力して戦うことを誓いあった。李典は張遼と共に800の兵を率い、孫権率いる10万の軍勢を迎え撃ち、撃退した。

36歳の若さで病死し、愍侯と諡された。正史では武帝紀で、215年建安20年)8月、孫権を合肥で破った記述を最後に事績が途絶えている。生没年を174年-209年とする書物があるが、史書や上記の略歴を見る限り、彼の活躍が明確になるのは官渡の戦い前後である。何より武帝紀の記述から先の没年を採る事は不可能といえよう。


『三国志演義』での李典

三国志演義』では、曹操が董卓に反旗を翻し、軍を編成した時点で三千の兵を引き連れて参加し仕えている。目立った活躍はないが呂布との戦いや華北4州を平定にも参加。その後に曹仁の配下として樊城に駐屯している。206年、曹仁が劉表の客将として新野に駐屯する劉備を攻撃しようとした時、李典は曹操に援軍を要請するべきだと慎重策を述べ、曹仁と対立している。李典の懸念通り、曹仁は劉備の軍師である徐庶の采配に翻弄され、樊城を奪われてしまう。

207年に、夏侯惇の配下として于禁と共に新野付近の博望坡に攻め寄せた。この時も李典は劉備軍の撤退の様子を不審に思い、夏侯惇の追撃を諫めている。夏侯惇は李典の言葉を聞き入れず深追いしたため、案の定諸葛亮の火計に遭い大敗した。しかし、李典は夏侯惇をあらかじめ諌めていたことにより曹操から賞賛されている。

208年、曹操が荊州など南方征伐を行った時も従軍した。長坂坡の戦いの最中、逃亡する劉備を追跡するが、長坂橋で仁王立ちしている張飛に撃退されている。再び曹操と共に長坂橋に行くと、今度は橋が焼き払われていた。そこで李典は「橋を落としたのは伏兵のない証拠」と判断して再追撃を命じた曹操に「諸葛亮の罠ではないかと思われます」と進言した。曹操は李典の言葉を聞き入れ撤退している。

209年、張遼の副将として合肥の守備を任され、呉の武将の太史慈を討ち取っている。 カテゴリ: 三国志の登場人物

更新日時:2008年6月23日(月)22:02
取得日時:2008/07/03 00:37


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