朱徳(しゅとく、チュー・ドー、1886年12月1日 - 1976年7月6日)は中国の軍人、中華人民共和国元帥。 本名:朱代珍、字は玉階。四川省の人。 1922年共産党入党。南昌蜂起を指導し、紅軍の軍長、八路軍総司令を歴任。
目次
1 生涯
1.1 年表
2 思想
3 戦略
4 参加戦役
5 評価
6 関連項目
//
主な出来事
抗日戦争 ? 国共内戦 ? 中ソ対立
大躍進政策
文化大革命 ? 林彪事件
改革開放
四五天安門事件
六四天安門事件
人物
毛沢東 ? 周恩来 ? 朱徳
劉少奇 ? 華国鋒 ? ?小平
林彪? 江青? 胡耀邦
趙紫陽 ? 江沢民 ? 李鵬
朱鎔基 ? 胡錦濤 ? 温家宝
理念
マルクス・レーニン主義
毛沢東思想 ? ?小平理論
4つの基本原則 3つの代表
地域
中国 ? 華北 ? 東北
華東 ? 華中 ? 華南
西南 ? 西北
中華人民共和国の行政区分
この欄を編集
彼の生家は小作農であり、貧農であった。伯父の朱世林は才気煥発なこの甥をかわいがり、5歳で山菜取りをしなければ生活できない環境の朱徳に教育の機会を与えた。これが朱徳の人生に大きな影響を与える事となる。
年表
1886年12月1日、四川省儀隴にて出生、
1892年私塾入学
1906年四川省南充県高級小学堂入学
1907年四川高等教学堂付属体育学堂編入
1908年四川省儀隴県立学堂体育教官及び庶務係
1909年雲南省講武堂歩兵科入学(軍歴の開始)
1910年雲南省新軍の少尉に任官
1911年蔡鍔の下で辛亥革命に参加
1915年護国戦争に参加
1916年軍長昇進
1917年旅団長昇進
1922年共産党入党
1922年-1926年ドイツ・ソ連留学
1927年共産党軍参加
1928年中国工農紅軍第四軍軍長就任
1937年八路軍総司令就任
1949年共産党副主席(国家副主席兼任)
1955年元帥
1976年7月6日逝去
朱徳は1921年、安定した生活を保障された国民党軍を辞した。これは、軍務を遂行する傍ら、雑誌「新青年」を愛読したこと、袁世凱政権打倒を進める軍の行動と、革命の進捗に疑問を抱いたことなどが背景であるといわれる。
1922年初めに上海に出た朱徳は、孫文に面会し、革命の遂行と成功は、軍閥との共闘では実現不可能であり、独自の軍隊組織を持つことの必要性を説いた。軍人としての経験と、革命思想の発露であったろう。また、国民党軍に参加していた経歴も孫文の胸襟を開かせる一助になったことは想像に難くない。
孫文との面談を終えた朱徳は、すぐさま共産党への入党を申請した。しかし、国民党員ではないとは言え、国民党軍で勇名をはせた朱徳の入党に難色を示した李大?は引き続き切磋琢磨し、機会を見て再度入党申請を出すように諭した。朱徳は失意の内にドイツを目指し、社会主義理論を学んだ。同年(1922年)ドイツで周恩来と面談することに成功する。さすがにその場での入党はかなわなかったが、翌年、周恩来の口添えで入党が許可された。尚、中国共産党史の扱いでは、1922年に李大?に入党申請した時点で共産党員となったことになっている。
ドイツ留学中に2度労働運動に参加し、2回目の労働運動で官憲に捕縛された朱徳は放校になってしまう。そのため、1925年にドイツからソ連に移動し、共産主義労働大学で軍事を学ぶ。この中で、朱徳は当時の軍閥が割拠する中国には地方利権保護的な資本主義や、軍閥を支える地方のプチブルを生む土壌となった私有財産制を制限する社会主義革命が必要であること、しかしそのためには軍閥を打倒する戦闘行為を避けて通れないこと、社会主義化を支えるのは共産党であるが、非合法で地下組織の状態ではゲリラ戦が有効であることなどを導き出したと思われる。