朱元璋
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朱元璋の肖像画。ここでは温和な有徳者として描かれている。

第1 代皇帝
洪武帝政権明
廟号太祖
諡号開天行道肇紀立極大聖至神
仁文義武俊?成功高皇帝
姓・諱朱元璋
生没年1328年 - 1398年
在位期間1368年 - 1398年
父朱五四(世珍)
母陳
陵墓孝陵
元号洪武1368年 - 1398年

朱元璋(しゅげんしょう、1328年10月21日 - 1398年6月24日、在位:1368年 - 1398年)は、中国朝の創始者であり、初代皇帝である。廟号太祖(たいそ)。諡号は開天行道肇紀立極大聖至神仁文義武俊?成功高皇帝。その治世の年号を取って、洪武帝(こうぶてい)と呼ばれる。また、生まれた頃の名は、朱重八(しゅ じゅうはち)といい、後に朱興宗(しゅ こうそう)と改名し、紅巾軍に参加する頃にさらに朱元璋と改名し、字を国瑞(こくずい)とした。



目次

1 生涯

1.1 紅巾の乱

1.2 江南の統一

1.3 中国統一

1.4 即位後の政策

1.4.1 国家組織

1.4.2 民政

1.4.3 官吏、知識人の弾圧


1.5 粛清


2 宗室

2.1 父母

2.2 后妃

2.3 子

2.4 女


3 家臣

3.1 定遠攻略(1353年)に参加した24将

3.2 明の建国時(1368年)に重職を与えられた者

3.3 洪武2年(1369年)の叙勲

3.4 洪武9年(1376年)に認定された功臣

3.5 功臣として太祖廟に祀られた者

3.6 その他の家臣


4 人物・逸話

5 現代中国への影響

6 朱元璋を題材にした映画

7 脚注

8 関連項目

9 外部リンク

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生涯


紅巾の乱

末に貧農の家の末子に生まれる。伝承によると母親は夢の中で仙人から赤い玉を授かって妊娠し、朱元璋が生まれると家全体が赤く光り輝き、近所の人々が火事であると勘違いして家の周りに集まってきたという。従兄弟も含めて八番目の子であったため、重八と名づけられる。元末の政治混乱に伴い飢饉凶作が頻発しており、朱元璋の家族は食べるものも無く飢え死にした(流行病で家族を失った説もある)。朱元璋だけは皇覚寺という寺に身を寄せ托鉢僧となり、淮河流域で勧進の旅を続けながら辛うじて生き延びたが、ほとんど乞食同然の生活であった。中国はもとより全世界の帝王・王朝創始者の中でも最も悲惨な境遇から身を起こした人物といわれる所以である。

1351年白蓮教徒の集団が各地で反乱をおこし紅巾の乱が勃発した。この大乱により皇覚寺は焼け落ちてしまった。朱元璋は自分の将来を占ってみたところ、紅巾軍に参加することが大吉であると出たため、韓林児を教祖とする東系紅巾軍の一派として濠州で挙兵していた郭子興のもとに身を投じたという。朱元璋は郭子興の下で頭角を現し、養女の馬氏を妻に貰った。これが後の馬皇后である。

朱元璋が郭子興の軍に参加した時、最初は間諜と間違われ、殺されそうになったが、面構えが郭子興に気に入られて、幕下に入ったという逸話がある。それぐらい朱元璋の人相が悪かったとも言えるだろう。朱元璋は他の造反軍がただ食料欲しさに目の前の事しか考えないのに比べ、先のことを考えた行動をとった。自分の出自を逆に活かして貧民の味方という立場を打ち出し、元軍の中の徴兵された農民達を取り込む事によって勢力を増していった。

この時期、のちに功臣第一となる徐達や勇猛で知られる常遇春や後の謀臣・李善長と出会った。朱元璋は李善長から「乱れた天下を治めるのは貴方である。そのためには同じ農民出身の劉邦の真似をすれば良い」と言われた。これ以降朱元璋の行動は劉邦を意識したものが多くなる。朱元璋が皇帝になる野望を本当に抱き始めたのはこの頃からだろう。


江南の統一

1355年に郭子興が死ぬと彼の軍は息子の郭天叙、郭子興の妻の弟・張天祐、そして朱元璋の3人に受け継がれた。しかし郭天叙と張天祐の2人は、元軍との戦いで戦死したため(朱元璋による陰謀との説もある)、朱元璋はそれらの軍を吸収し1356年、集慶路(現在の南京)を占領し、応天府と改める。応天府を占領した朱元璋は長江下流の一大勢力となった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki