本田 雅和(ほんだ まさかず、1955年- )は、朝日新聞記者。朝日新聞社北海道報道センター夕張臨時支局長。
京都市南区東九条に生まれ育つ。横浜国立大学経済学部を卒業後、1979年同社入社。『週刊朝日』編集部などを経て、2006年社会部からアスパラクラブ運営センターへ、2007年北海道報道センターへ異動(現職)。
目次
1 人物
2 著書
3 関連書籍
4 脚注
5 関連項目
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本多勝一と松井やよりを師表と仰ぐ。朝日新聞社に入ったのも、両人に憧れていたためと語る[1]。
かつて「差別者」だったことを自ら告白し、「被差別者」との連帯を標榜。部落解放同盟や朝鮮総連などと強いパイプをもって取材をしていた。また、「差別の原因は、経済・社会構造そのもの。差別意識は単なる偏見や心の問題ではない」として<差別=金儲け説>を唱えた。1993年7月に筒井康隆の小説『無人警察』が日本てんかん協会から抗議を受けたときは、本田は「作家は特権階級か」と筒井批判の急先鋒に立った。
1995年1月、『マルコポーロ』が、ホロコーストでのガス室処刑を否定する記事を掲載してアメリカ合衆国のユダヤ人団体や人権団体から抗議を受けた時(マルコポーロ事件)、この件について取材を開始。『マルコポーロ』が廃刊された後にもこの問題を繰り返し大きく取り上げ、記事の寄稿者で、ガス室の存在に否定的な立場を取る西岡昌紀を批判した。
2005年1月には、女性国際戦犯法廷をめぐるNHKの特集番組について、「自民党の安倍晋三・中川昭一両議員による政治介入があり、圧力を受けたNHK側は放送直前に番組内容を大幅に改変した」と主張、朝日新聞紙上で両議員を強烈に批判した。これに対し、両議員やNHK幹部は「圧力は存在しなかった」「記事は捏造だ」などと報道を否定した。NHKはこの一件を「朝日新聞虚偽報道問題」と呼称したが、この表現に朝日新聞社が抗議し、NHKはその後「虚偽報道」との表現は取り下げた。テレビに出演した中川氏は手元にNHK職員との面会した議員録が残っており、朝日新聞社に安倍を交えた公開討論を請求し、裁判も辞さないと発言したが本田氏はその後音信不通となった。
かつて本田から批判された経験がある小林よしのりは、この騒動に関連して「本田記者の印象は、とにかく思い込みが激しい人。エキセントリックで、常に断定口調です。相手を"悪"と決め付けたら、徹底的に自分の主張を押し付ける。ワシと会ったときも"差別は経済構造だ"と主張し、作家が金儲けのために本(『ゴーマニズム宣言』)を出すことを否定していた。初めから結論ありきで、取材するタイプです。別の角度から検証するという、記者として当たり前のことをしないんですよ」と発言している[2]。また朝日新聞は該当号の広告の掲載を拒否した。一方、ジャーナリストの魚住昭は、朝日新聞の内部資料を入手し、安倍らへの取材の録音記録を暴露。本田らの記事は関係者の証言にもとづいた正確なもので安倍らが嘘をついていると論じ、本田らを擁護した[3]。しかし、朝日新聞社は逆に内部資料流失の責任問題で、社会部長らを更迭した。
2006年4月1日付で、朝日新聞の会員制読者サービス部門「アスパラクラブ」の運営センター員に異動。事実上の左遷である。もともと社内には、本田を社会部から追放せよとの圧力が強く、これに対して社会部がとうとう庇いきれなくなったとも報じられている。この件に関して毎日新聞社の取材を受けた本田は「くだらないことを聞くなよ。ジャーナリストなら、もうちょっとまともなことを取材したらどう?」と返答した。[4]
2007年4月から北海道報道センターに転属となり、記者として復活。夕張市で勤務しているが、夕張市長の記者会見で質問者としての立場を超え延々と自説を開陳するなどの言動が災いして夕張の記者クラブを分裂させるに至ったことを、『週刊新潮』2008年1月3日・10日合併号に報じられた。
著書
『巨大都市(メガロポリス)ゴミと闘う』朝日新聞社、1990年 ISBN 4022562161
『環境レイシズム─アメリカ「がん回廊」を行く』(風砂子デアンジェリスとの共著)解放出版社、2000年 ISBN 4759263233
関連書籍
筒井康隆『断筆宣言への軌跡』光文社、1993年 ISBN 4334052096
小林よしのり『ゴーマニズム宣言6』幻冬舎、1999年 ISBN 4877287981
渡部昇一、屋山太郎、八木秀次『日本を蝕む人々 平成の国賊を名指しで糺す』PHP研究所、2005年 ISBN 4569641342
脚注^ 行路社刊『女性・戦争・人権』第6号「特集・フェミニズムとコロニアリズム」(2003年12月)所載「私に『夢』を語り続ける『松井やより』」
^ 『週刊新潮』2005年1月27日号