本因坊(ほんいんぼう)
江戸時代、安井家・井上家・林家と並ぶ囲碁の家元四家のうちの一つ(→下記項目「本因坊家」に詳述)。
昭和になって作成された、囲碁の棋戦の一つである本因坊戦に優勝した棋士に贈られるタイトル(→下記項目「本因坊戦」に詳述)。
目次
1 本因坊家
2 本因坊戦
2.1 創設
2.2 実施方式
2.3 雅号
2.4 名誉称号
3 歴史
3.1 創設
3.2 東西対決
3.3 高川9連覇
3.4 坂田時代
3.5 木谷門の台頭
3.6 趙治勲10連覇
4 歴代本因坊
4.1 世襲本因坊
4.2 タイトル五連覇による本因坊
5 歴代本因坊戦優勝者
6 関連項目
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織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三代の覇者に仕えた日海(一世本因坊算砂)を開祖とする家系。「本因坊」の名は、算砂が住職を務めた寂光寺の塔頭の一つに由来する。「本因坊」はもとは上方風に「ほんにんぼう」と読んだが、囲碁の普及に伴って「ほんいんぼう」と読まれるようになった。
以降5人の名人を含め多くの名棋士を輩出し、江戸期を通じて囲碁四家元、将棋方三家の中で絶えず筆頭の地位にあった。道策・丈和・秀和・秀策・秀栄などは、中でも高名である。明治以後にもその権威は受け継がれるが、昭和に入り二十一世本因坊秀哉がその名跡を譲渡、実力制に移行することとなった。
本因坊家の外家としては、水谷家(水谷琢元、水谷琢順、跡目琢廉、跡目順策、四谷)がある。※歴代の世襲制本因坊については、下記項目「歴代本因坊」の世襲本因坊に記載あり。
1939年創設。毎日新聞社主催。最後の世襲本因坊二十一世本因坊秀哉名人は、本因坊の名は棋界随一の実力者が名乗るべきものであるという思いから、日本棋院に本因坊の名跡を譲り渡し、選手権制による本因坊戦「本因坊名跡争奪全日本囲棋選手権大手合」が行われることになった。囲碁におけるタイトル制度はこれが始まりであり、以後に始まる多くの棋戦のモデルとなった。
実施方式
第1-5期までは、2年で1期の開催。第6期から1年1期となる。この変更が、当時の本因坊位であった橋本宇太郎の率いる関西棋院独立の一因にもなった。
現在では、前年度の本因坊七番勝負敗退者と前年度のリーグ戦二位から四位までの4人に加え、予選トーナメントによって4人を選出し、計8名によるリーグ戦を行って挑戦者を決定する。リーグ戦の五位以下は陥落となり、翌年度は再び予選トーナメントからの参加になる。本因坊リーグは棋聖・名人リーグとともに3大リーグと呼ばれ、ここに参加することが一流棋士の証とされる。
リーグ戦の一位者はタイトル保持者と七番勝負を行い、優勝者を決める。七番勝負は全国の有名旅館・ホテルを舞台に、持ち時間各8時間、封じ手制による2日制で戦われる。
雅号
本因坊位獲得者は、本因坊名跡を継承するという主旨で本因坊○○と名乗る慣例がある。当初は日本棋院から号を贈られていたが、本因坊薫和(岩本薫)以降、個人的に雅号を決める慣例ができた。雅号は多くの場合本名から一字を取り、もう一字と組み合わせる。もう一字としては、本因坊秀格(高川格)、本因坊秀芳(石田芳夫)のように本因坊家ゆかりの「秀」の字を用いるケースが多い。
ただ林海峰以後の外国出身棋士を中心に、雅号を決めず実名を号とする例が多くなっている。高尾紳路は当初、周囲から雅号を勧められても時期尚早として固辞していたが、3連覇を機に「秀紳」の雅号を名乗った。また羽根直樹は本因坊奪取後のテレビインタビューで、雅号を名乗るだけの実力や実績が伴っていないとして名乗らない考えを示している。
なお、武宮正樹は初めての本因坊就位の際には「秀樹(しゅうじゅ)」を名乗ったが、二度目以降は「正樹(せいじゅ)」と号を変更している。
本因坊戦を5連覇以上、あるいは通算10期以上獲得した棋士は、引退後または現役で60歳に達した際に○○世本因坊を名乗る権利を得る。