木内幸男
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木内 幸男(きうち ゆきお、1931年7月12日 - )は茨城県土浦市出身の高校野球指導者である。
目次

1 人物・来歴

1.1 生い立ちと土浦一高時代(1931 - 1956)

1.2 取手二高時代(1957 - 1984)

1.3 第1次常総学院時代(1985 - 2003)

1.4 勇退から復帰へ(2004 - 2007)

1.5 第2次常総学院時代(2008 - )


2 監督としての特徴

2.1 戦術野球の名手

2.2 選手の指導方法

2.3 木内節

2.4 茨城県における木内


3 主な教え子

3.1 土浦一高時代

3.2 取手二高時代

3.3 常総学院時代


4 甲子園戦績

4.1 取手二高時代

4.2 常総学院時代


5 エピソード

6 脚注

7 関連図書

8 関連項目

9 外部リンク

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人物・来歴


生い立ちと土浦一高時代(1931 - 1956)

幸男は下駄職人の家庭に生まれ育ち、子供のころは結構裕福だったという。

県内有数の進学校である土浦一高(入学当時は土浦中学校)に進学する。野球部では主将でセンターをつとめ3年生の夏は県予選で左中間の打球をあと少しでとれずに逆転負けを喫し、甲子園に行くことは出来なかった。このことの心残りと当時の監督がほとんど練習を見ていなかったこともあって、そのまま土浦一高でコーチを続ける。慶應義塾大学にも合格していたが、コーチを続けるために入学しなかったという。後に阪神監督をつとめる安藤統男を2年生まで指導し、木内が取手二高に移った翌年に土浦一高は甲子園出場を果たしている。


取手二高時代(1957 - 1984)

土浦一高での指導はほとんどボランティアで、家業の下駄産業が衰退していった事情もあって生活のため伝統校を離れて1957年から取手二高に就職する。取手二高は戦前は高等女学校であった関係で、戦後も女子校の雰囲気を色濃く残していた。だから野球部はあくまで男子生徒の存在を知らしめる以上のものではなく、当然ながら甲子園ははるか遠い存在であった。後に「マジック」と称される木内の意表をついた戦法は、この長い弱小時代のとても勝てそうにない相手をなんとか負かしてやろうという執念の末に身についたものであり、2回ほど千葉県との東関東大会の県代表になるなどしばしば台風の目となる躍進を見せることもあった。監督以外の事でも拘束の多い教員の身分を嫌って待遇は用務員と変わらない職業監督の身分をあえて選んでいたが、そのため生活はかなり苦しかった。

次第に取手二高は県内の強豪校として定着し19741975年と連続準優勝に終わるなど後一歩で甲子園を逃し続けていたが、取手二高に就任してから20年後の1977年大野久を擁して甲子園初出場を果たし甲子園でも1勝する。それから選抜・選手権合わせて6回甲子園に出場する。特に1984年の選手権大会では石田文樹吉田剛などを擁し決勝でとても勝てないと思われた桑田真澄清原和博PL学園を延長10回の末、中島彰一(現・住友金属鹿島野球部監督)の3ランなどで8-4で破って全国優勝を果たす。まるでガキ大将たちが元気に飛び跳ねるようにプレーする様はPLの緻密な組織野球との対比で「のびのび野球」と呼ばれ、出っ歯をむき出しにして激しく怒っては豪快に笑う木内自身の強いキャラクターもあって一躍全国的に有名な監督となった。なおこの年は国体でも決勝でPL学園と対戦し、5-4で破って優勝している。


第1次常総学院時代(1985 - 2003)

1985年からは理事長である櫻井富夫の強い要請で、その2年前に開校したばかりの私立の常総学院に移る。就任3年目の1987年春の選抜大会で甲子園に出場し、夏の選手権ではエースの島田直也や当時1年生の仁志敏久などを擁して準優勝を果たす。伊良部秀輝尽誠学園香川)、後藤孝志中京愛知)、大会屈指の豪腕だった川島堅東亜学園西東京)などの注目の好投手や名門校をいとも簡単に退けていく戦いぶりが「木内マジック」と呼ばれ、以降木内の代名詞として流通していくようになる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki