文帝曹丕の長男。生母は甄氏。
姓・諱曹叡
生没年206年ないし205年 - 239年
在位期間226年 - 239年
父文帝
母甄氏
陵墓
元号太和:227年 ? 233年
青龍:233年 ? 237年
景初:237年 ? 239年
曹叡(そうえい、C?o R?i、206年 - 239年[1])は三国時代の魏の第二代皇帝(在位226年 - 239年(景初3年1月))。字は元仲。諡は明帝、廟号は烈祖[2]。
目次
1 生涯
2 政策
2.1 軍事
2.2 内政
2.3 人事
3 評価
4 家族
5 脚注
6 出典
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文帝曹丕の長男。生母は甄氏。220年、数え15歳で武徳侯、翌年に斉公、222年には平原王に封ぜられた。
裴松之注『魏書』によれば、抜きんでた容貌を持ち、望み見ると犯しがたいほどの威厳があったという。また西晋の歴史家・孫盛は、曹叡は生まれつきの美貌に加え、床に届くほどの長い髪を持ち、「天姿秀出」と絶賛された、という話を古老から聞いたという。
226年、父の文帝・曹丕が病床で重体に陥ってから皇太子に立てられた。即位以前、曹叡は公の場に出ることが少なく、曹叡の人物を知る者は司馬懿など限られた人々しかいなかったという。同年5月に曹丕が亡くなると皇帝に即位した。
遼東制圧が完了した前後、首都洛陽にあった曹叡は病によって重篤に陥り、曹芳[3]の後見人を誰にするかを模索。はじめ、曹宇・曹肇・夏侯献・秦朗[4]ら宗室で固めようとするが、彼らと不仲であった劉放・孫資ら側近の反対にあって心変わりする。司馬懿・曹爽らを後見人に改めて立てる。景初3年1月(239年)に36歳で亡くなり、高平陵に葬られた。
『魏書』明帝紀などによれば、曹叡は軍事に対して幾度も言及している。その内容は戦況と先の展開を的確に把握しており、以下のような場面において発揮されている。
226年、孫権が自ら江夏を攻めた時、「孫権の狙いは奇襲である。文聘が江夏を固守しているため、戦線は既に膠着状態に陥っている」と推測し、これを前提に「援軍が有ると見せかけさえすれば、援軍は少数でも孫権は退くだろう」と読み、援軍として荀禹を派遣した。曹叡の読み通りに孫権は撤退した。別働隊の諸葛瑾と張覇に対しては司馬懿を襄陽に向かわせて撃退した。
227年、麹英が西平で反乱を起こすと、?昭らを派遣し鎮圧した。
228年、新城太守の孟達が蜀の諸葛亮と内通した事を知ると、司馬懿をその鎮圧の任に当たらせ孟達を斬った。このことは、蜀側にとっては新城からの侵攻ルート消滅を意味し、魏国側にとっては蜀漢による挟撃を防いだ事を意味する。これは蜀漢の第一次北伐における魏国の街亭での勝利に間接的ながらも貢献した。諸葛亮によって、以後五度にわたる侵攻(北伐)が開始されると、皇族の曹真、司馬懿や張?など曹操以来の宿老達を用いて、これらを防がせた。また第一次北伐時には親征して長安方面の動揺を鎮めている。
234年、呉蜀が相次いで魏領に侵攻した。この時、満寵は“合肥の守備は放棄し、孫権を寿春で迎え撃つ”という計画を立てた。それに対して曹叡は“合肥、襄陽、祁山は魏の重要な防御拠点であり、敵は決して落とす事が出来ない。であるから、合肥で敵を迎え撃つように”との詔を出して計画を改めさせ、さらに合肥へ親征した。孫権は合肥を攻撃したが、守将の張穎らの前に攻めあぐね、曹叡が戦場に到着する前に撤退した。一方、五丈原で諸葛亮と対峙する司馬懿には、“決戦を回避して持久戦に持ち込み、撤退時には追撃するべし”との詔を出し、防衛の成功に貢献した[5]。
238年、遼東の公孫淵が燕王を自称して魏に対する謀反を起こすと、曹叡は群臣の反対を押し切って征討を決行した。司馬懿の判断を全面的に信用し、全権を委ねて鎮圧に当たらせた結果、反乱の早期鎮圧に成功した。魏国が蜀漢・呉と当たる際、後顧の憂いとなっていた遼東公孫氏を取り除いた。
234年、諸葛亮が病没すると、連年のように行われていた蜀漢の北伐は沈静化した。呉も同盟国である蜀漢の内情を考慮し、外征を一時中断した。こうして周囲の外圧が減少に転じると、曹叡は内政の手腕を問われるようになる。
数度に渡って宮殿の造営などを行い、その費用により魏の財政は大きく傾き、また農繁期の農民を多く徴用したために農村の荒廃を招いたと言われる。
次に兵力の恒常的確保のため、兵士の家同士の結婚を奨励。官民(兵士以外の家)に嫁いだ既婚者は、召し上げて未婚の兵士と再婚させるなどした。この政策は「召し上げる際には奴隷を身代わりに出しても良い」「召し上げた既婚者のうち容姿の良い者については後宮に入れる」などの附則が仇となり、国内での人身売買を横行させてしまう。金持ちは妻の身代わりとなる奴隷を買い求め、貧乏人は自らの妻女を金銭で金持ちに差し出したのである。
これらの政策について、重臣のほとんどが反対をしたが、明帝はこれを強硬に推し進めた。
これらの政策に対して司馬光は『資治通鑑』の中で「明帝は諸葛亮の死による外圧の消滅したことで気が緩み、自らの好みの大土木事業を行った」としている。これに対して日本の東洋史学者安田二郎は「明帝の宮殿造営は諸葛亮の死の前より行われており、外圧の消滅とは関係がない。この土木事業は農民に収入を与えるためのいわば公共事業であり、明帝はこれを『社稷の計』であると強い信念を持って断行したものである。」とする[6]