暦(こよみ、れき)とは、時間の流れを年・月・週・日といった単位に当てはめて数えるように体系付けたもの。また、その構成の方法論(暦法)や、それを記載した暦書・暦表(日常生活上の日本語でいわゆる「カレンダー」)をも指す。さらに、そこで配当された各日ごとに、月齢、天体の出没(日の出・日の入り・月の出・月の入り)の時刻、潮汐(干満)の時刻などの予測値を記したり、曜日、行事、吉凶(暦注)を記したものをも含める。
日を記録するものをカレンダー、天象を予報するものをエフェメリス(天体暦)と分け、さらに日ごとに天象に加えて行事や占いや曜日などを総合して記述したものをアルマナック(生活暦)というように目的別に区分できるが、民間においてこれらは分かちがたく結びついていた。
目次
1 語釈
2 暦法
2.1 日本における暦
2.2 日本における暦法
2.3 その他の国の暦法
2.4 提案されている暦法
2.5 架空の暦法
2.6 それぞれの暦法の長所・短所
3 年の記述
4 生活暦
5 実用品としての暦
6 関連項目
7 外部リンク
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なお「こよみ」の語源は、江戸時代の谷川士清の『和訓栞』では「日読み」(かよみ)であるとされ、定説となっており、一日・二日...と正しく数えることを意味する。ほかに、本居宣長の「一日一日とつぎつぎと来歴(きふ)るを数へゆく由(よし)の名」、新井白石は「古語にコといひしには、詳細の義あり、ヨミとは数をかぞふる事をいひけり」などの定義がある。
中国の暦も月日の決定だけでなく、日月食の予報や惑星運行の推算などを扱うものであった。過去に関する記録は「歴」、現在から未来に関する記録は「暦」であるが、これをともに扱う役職を史官といい、今で言う歴史学者と天文学者を兼ねていた。また暦は未来を扱うものであるから、予言的な性格を持ち、占星術と大きく関わる。占いに関わるものは暦注と呼ばれた。
まず昼夜の周期が日となり、月の満ち欠けの周期が月に、季節の周期が年となった。何を基準として1年を定めるか、閏(閏日・閏月)をどのようにして決めるかなどにより、さまざまな暦法がつくられた。大きく分けて以下の3種類がある。
太陽暦
太陰太陽暦
太陰暦
それぞれ、基準は「太陽」、「太陽と月の併用」、「月」である。
現在、世界各国で広く用いられているのは、太陽暦の1つであるグレゴリオ暦である。 日本でグレゴリオ暦以前に使われた暦法は、太陰太陽暦であった。元嘉暦から宣明暦までは中国暦を輸入して使った。これを漢暦五伝という。貞享暦から天保暦までは、日本人の手によって作られた暦法である。
中国の暦が日本に伝えられたのがいつであるか定かではないが、『日本書紀』には欽明天皇14年(553年)に百済に対し暦博士の来朝を要請し、翌年2月に来たとの記事があり、遅くとも6世紀には伝来していたと考えられる。この頃の百済で施行されていた暦法は元嘉暦であるので、この時、伝来した暦も元嘉暦ではないかと推測される。
また推古天皇10年(602年)に百済から学僧観勒が暦本や天文地理書などを携えて来日し、幾人かの子弟らがこの観勒について勉強したとある。 官暦として正式に採用されたのがいつからであるかについては諸説ある。
平安時代に編集された『政事要略』という本には推古天皇12年(604年)から初めて暦の頒布を行ったと書かれているが、『日本書紀』では持統天皇4年(690年)の条にある「勅を奉りて始めて元嘉暦と儀鳳暦とを行う」という記事がはじめてであり、正式採用は持統天皇6年(692年)からという説がある。
文武天皇元年(697年)8月からは元嘉暦が廃され、儀鳳暦が専用された。儀鳳暦は唐で施行された麟徳暦のことである。元嘉暦と儀鳳暦の大きな違いは朔日の決定方法と閏月の置き方である。朔日については前者は平朔を、後者は定朔を使用していた。
また置閏法については元嘉暦が19年7閏月という章法を採用していたのに対し、儀鳳暦では章法に拘らない破章法を用いていた。儀鳳暦以降、大衍暦・五紀暦・宣明暦と唐で施行された暦法が相次いで輸入され施行された。実際の毎年の暦の作成・頒布は暦博士などの暦道の人々が行った。宣明暦は貞観4年(862年)より用いられたが、その後は中国との正式な国交が絶えたため、江戸時代まで823年間も施行された。