普仏戦争
戦争:
年月日:1870年7月19日 - 1871年5月10日
場所:フランス、ドイツ
結果:プロイセンの圧勝
交戦勢力
フランス
プロイセン
プロイセン
北ドイツ連邦
(後のドイツ帝国)
指揮官
ナポレオン3世ビスマルク
ヴィルヘルム1世
戦力
500,000人550,000人
損害
150,000人死傷
284,000人捕虜
350,000人(市民の死傷)100,000人死傷
200,000人(市民の死傷)
1870年8月16日の戦い。右に描かれたフランス軍砲兵にプロイセンの騎兵が襲いかかる。この戦いでフランス軍は大敗し、戦況は一気にプロイセン有利となったプロイセン(長方形)、フランス(半円)両国軍の布陣(1870年7月31日)セダンの戦いの後、ナポレオン3世とビスマルクの会談の様子
普仏戦争(ふふつせんそう, 英:Franco-Prussian War, 仏:Guerre franco-allemande de 1870, 独:Deutsch-Franz?sischer Krieg, 1870年7月19日 - 1871年5月10日)は、第二帝政期のフランスとプロイセン王国(後のドイツ帝国)の間で行われた戦争である。ドイツ諸邦もプロイセン側に立って参戦したため独仏戦争とも呼ぶ。
この戦争の結果、プロイセンはドイツ帝国の盟主としてドイツ全土を支配することとなり、フランスにおいては第二帝政の崩壊と第三共和政の成立、アルザス・ロレーヌ地方のドイツへの割譲という結果が生じた。戦争後、ベルリンに一連のドイツ統一戦争の勝利を記念して戦勝記念塔が建てられた。
目次
1 背景
2 経過
3 パリ・コミューン
4 影響
4.1 戦争後のフランス
5 関連項目
6 外部リンク
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プロイセンとオーストリアがドイツの主導権をかけて行った普墺戦争はプロイセンの勝利に終わった。戦争の結果、プロイセンはドイツ諸邦を連合する北ドイツ連邦を主導し、また自国の領土を拡張して北ドイツやライン川流域に勢力を伸ばした。これはライン川流域に近いフランスにとって直接の脅威となった。一方プロイセンにとっても、皇帝ナポレオン3世のもとでのフランスの強大化は脅威であった。
1868年に空位となったスペインの王位継承を争ってフランスとプロイセンとに齟齬が生じた。フランスとの開戦準備を進めていたプロイセンの首相ビスマルクは、この事件をめぐるプロイセン王ヴィルヘルム1世の電報を、フランスがプロイセンを侮辱したように改竄し、7月14日に各国報道機関へ向けて発表した。ヴィルヘルム1世が温泉保養地バート・エムスに滞在中であったことから、これをエムス電報事件という。
エムス電報事件に刺激されたフランス世論に促され、ナポレオン3世は7月15日に動員令を発令。翌日にはプロイセンも動員令を発した。動員令から4日後の1870年7月19日、エムス電報事件から1週間もたたない電撃的な速さで、フランスはプロイセンに宣戦布告した。
この戦争を予測していたプロイセンは普墺戦争の後にフランスへ向けて鉄道線路を6本引き(フランスはプロイセンに向け1本)、情報将校を戦場の舞台になるであろうフランス東北部に派遣、観光客にまぎれこませ偵察させ地図を作成するなど万全な準備を整えていた。また北ドイツ連邦加盟の領邦諸国は、プロイセンが先に宣戦布告された場合には協力するとの条約に基づき参戦した。その他にも他国が介入しないよう、ロシア、オーストリア、イタリア、イギリスに事前に根回しをしていた。これに対し、フランスはメキシコ帝国が失敗し、マクシミリアンが処刑されたことにより、オーストリアからの支援を得られなかった。
周到に作戦計画を練っていた(10回以上もの作戦計画を練っていた)参謀総長大モルトケ率いるプロイセン軍は、フランス軍正面と右翼を攻撃、フランス軍の敗北が続いた。フランス軍は北に圧迫され、戦局はフランスに不利に推移した。ナポレオン3世は自ら戦地に赴きセダンの戦いに臨んだが、プロイセン軍は戦線に穴を空けた南方から迂回し、セダンから首都パリへの退路を断つ包囲行動にでていた。フランス軍はセダンで完全に包囲され、開戦からわずか1ヵ月半後の9月2日、ナポレオン3世は10万の将兵とともに投降し捕虜となった。