明治六年政変(めいじろくねんせいへん, 1873年(明治6年))は、征韓論に端を発した明治初期の一大政変。当時の政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が職を辞した。征韓論政変(せいかんろんせいへん)とも。
目次
1 経緯
2 後日譚
3 参考文献
4 関連項目
//
そもそもの発端は西郷隆盛の朝鮮使節派遣問題である。王政復古し開国した日本は、李氏朝鮮に対してその旨を伝える使節を幾度か派遣したが、その文書に今まで使われていなかった「皇」や「勅」の字が入っている、押印が違うなどと主張して、朝鮮は受理を拒んだ。また当時の朝鮮において興宣大院君が政権を掌握して儒教の復興と攘夷を国是にする政策を採り始めたため、これを理由に日本との関係を断絶するべきとの意見が出されるようになった。更に当時における日本大使館に相当する機関であった倭館の入り口に「野蛮の国」と書かれた張り紙を貼るなど殊更非礼な態度を取ったため、武力行使も辞さないという強硬派が現われた。西郷はそれを抑え、まず自ら非武装で朝鮮に行き、礼を尽くして談判後それでも決裂した場合、朝鮮の罪を明らかにし非を問うべきだと主張。元々士族の窮状に心を痛めていた西郷は、自らが朝鮮で殺されることを以て征韓を政府に決行させようとしていたとも言われる(これは西郷が板垣に宛てた書簡からうかがえる。これを根拠に西郷は交渉よりも武力行使を前提にしていたとされ、教科書などではこれが定説となっている。ただし板垣宛の書簡は板垣を説得するための方便に過ぎず、西郷の本意は交渉重視であったとの説もある)。
この西郷の使節派遣に賛同したのが板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣、桐野利秋らであり、反対したのが大久保利通、岩倉具視、木戸孝允、伊藤博文、大隈重信、大木喬任、黒田清隆らである。この征韓論争は「征韓派対内治派」という単純な構図ではなく、裏には藩閥の主導権争いを巡る思惑が絡んでいたとされる。また、岩倉使節団派遣中に留守政府は重大な改革を行わないという盟約に反した決定であったことも大久保らの態度を硬化させた原因であった(徴兵令や地租改正などの留守中の改革は、いずれも使節団出発前に方針を打ち出されていたものであったが、韓国派遣のみは全く相談が行われなかった)。
大久保ら岩倉使節団の外遊組帰国以前の8月17日、一度は閣議で西郷を朝鮮へ全権大使として派遣することが決まったが、翌日この案を上奏された明治天皇は「外遊組帰国まで国家に関わる重要案件は決定しない」という取り決めを基に岩倉具視が帰国するまで待ち、岩倉と熟議した上で再度上奏するようにと、西郷派遣案を却下している(岩倉の帰国は9月17日)。
大久保は、説得に大院君が耳を貸すとは思えず西郷が朝鮮に行った場合必ず殺される、そうなった場合結果的に朝鮮と開戦してしまうのではないかという危機感、当時の日本には朝鮮や清、ひいてはロシアとの関係が険悪になる(その帰結として戦争を遂行する)だけの国力が備わっていないという戦略的判断、外遊組との約束を無視し、危険な外交的博打に手を染めようとしている残留組に対する感情的反発、朝鮮半島問題よりも先に片付けるべき外交案件が存在するという日本の国際的立場(清との琉球帰属問題(台湾出兵参照)、ロシアとの樺太、千島列島の領有権問題、イギリスとの小笠原諸島領有権問題、不平等条約改正)などから猛烈に反対、費用の問題なども絡めて征韓の不利を説き延期を訴えた。
10月14日-15日に開かれた閣議は紛糾したが、採決で同数になった結果、この意見が通らないなら辞任する(西郷が辞任した場合、薩摩出身の官僚、軍人の多数が中央政府から抜けてしまう恐れがある)とした西郷の言に恐怖した議長の三条が即時派遣を決定。反対(延期)派の参議である大久保、木戸、大隈、大木は辞表を提出、右大臣の岩倉も辞意を伝える。
後は明治天皇に上奏し勅裁を仰ぐのみであったが、この事態にどちらかと言えば反対派であった太政大臣の三条実美が10月17日に倒れ、人事不省に陥る。 太政官職制に基づき岩倉が太政大臣代理に就任すると、大久保、大隈、伊藤、黒田らは宮中工作を開始、宮内卿徳大寺実則の助力を得て事前に明治天皇に延期論を上奏、これは明治天皇の意思を拘束するためであった。そして10月23日、岩倉は閣議決定の意見書とは別に「私的意見」として西郷派遣延期の意見書を提出。結局この意見書が通り、西郷派遣は無期延期の幻となった。閣議決定が工作により覆されたのである。
そして西郷は当日、板垣、後藤、江藤、副島は翌10月24日に辞表を提出。10月25日に受理され、賛成派の参議5人は下野した。また征韓論に賛成する軍人、下野した参議と懇意であった官僚も大量に辞職。ちなみに反対派参議の辞表は当然不受理となった。更に翌年1月にも板垣・後藤に近い官僚・軍人が西郷の近衛都督の後任引継が行われないままに帰国するという法令違反を犯しているのを咎めるどころか、逆に西郷に対してのみ政府復帰の働きかけを行っている事に憤慨して第2の大量辞任が起きた。
この後、江藤新平によって失脚に追い込まれていた山縣有朋と井上馨は西郷、江藤らの辞任後しばらくしてから公職に復帰を果たす。この政変により大久保が政府の実権を握った。また、木戸孝允も征韓論を否定しながら、台湾出兵を決めた大久保の政治手法に不満を抱いて下野してしまう。これによりその後の明治政府の方針は大久保の主導によることが確定した。また佐賀の乱、西南戦争などの士族反乱や自由民権運動の発端ともなった。
ただし、これで征韓論争が終わった訳ではない。なぜなら、朝鮮との国交問題そのものは未解決であること、伊地知正治のように征韓派でも政府に残留した者も存在すること、そして天皇の勅裁には朝鮮遣使を「中止」するとは書かれず、単に「延期」するとなっており、その理由も当時もっとも紛糾していたロシアとの問題のみを理由として掲げていたからである。つまり、ロシアとの国境問題が解決した場合には、改めて朝鮮への遣使が行われるという解釈も成立する可能性があった。そして、それは千島樺太交換条約の締結によって、政府内に残留した征韓派は今度こそ朝鮮遣使を実現するようにという意見を上げ始めたのである。ところが、台湾出兵の発生と大院君の失脚によって征韓を視野に入れた朝鮮遣使論は下火となり、代わりに純粋な外交による国交回復のための特使として外務省の担当官であった森山茂(後に外務少丞)が倭館に派遣され、朝鮮政府代表との交渉が行われることとなった。