日本棋院(にほんきいん)は、囲碁の棋士を統括し、棋戦を行っていくための組織(財団法人)。
現在300人ほどの棋士、女流棋士が所属しており、その他に一般事務員、棋院発行の出版物をまとめる為の記者などが勤めている。日本棋院東京本院(東京都千代田区)
目次
1 歴史
2 発行誌
2.1 棋道
2.2 囲碁クラブ
2.3 碁ワールド
2.4 囲碁未来
2.5 週刊碁
3 組織
3.1 東京本院
3.2 関西総本部
3.3 中部総本部
3.4 海外拠点
4 役員
4.1 2007年現在
4.2 歴代総裁
4.3 歴代理事長
5 顕彰
5.1 秀哉賞
5.2 大倉喜七郎賞
5.3 棋道賞
5.4 松原賞
5.5 土川賞
6 関連項目
7 外部リンク
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明治維新以降、幕府というパトロンを失った棋士達は離合集散を繰り返し、囲碁界は混沌とした情勢であった。1872年に村瀬秀甫により設立された史上初の近代的なプロ棋士の団体である方円社と、封建的な風習を墨守する家元の本因坊家とが、対立、並存する時代が長年続いていた。 しかし1923年の関東大震災を機に棋士達の大同団結の機運が高まり、翌1924年、大倉喜七郎を後援者として、本因坊秀哉以下の坊門の棋士や方円社など、ほとんどの棋士が集結し、日本棋院が設立された。
設立直後に棋正社の独立などもあり多少動揺した日本棋院であったが、その後新布石法の発表などで囲碁の人気も高まり、磐石の体制を築いていく。
第二次世界大戦中の1945年の東京大空襲で、赤坂溜池にあった棋院本部が焼失するなど大きな被害を受けたが、戦後すぐに瀬越憲作、岩本薫らが中心になって再建を目指し、大手合も料亭や後援者の邸宅などを借りて再開された。1948年には高輪に新しい棋院会館が設立され、その後の呉清源十番碁の高人気も手伝い、順調に日本棋院の再建は成されていった。
1947年には坂田栄男、梶原武雄ら8棋士が「囲碁新社」を旗揚げするが、1949年復帰する。さらに1950年、今度は当時本因坊の座にあった橋本宇太郎を旗頭に関西棋院が設立された。橋本は翌年の本因坊戦で坂田の挑戦を1-3からの大逆転で降してタイトルを防衛、関西の独立を守った。その後幾度か再統合の話も出ているが、段位の調整や財政問題などがネックとなり実現していない。
1971年には市ヶ谷に、現在も使用されている新会館が建設された。その後紆余曲折はあったものの、現在でも日本棋院は日本囲碁界の総本山であり、世界囲碁界の中でも重要な地位を占める。ただし1990年代以降赤字財政が続いている他、囲碁人口の減少(2005年の囲碁愛好者は約350万人。『レジャー白書』による)、国際棋戦における日本棋士の不振など、抱えている問題も少なくないのが現状である。
機関誌として月刊「碁ワールド」、また毎年「囲碁年鑑」を発行している。
入門者向け雑誌として「囲碁未来」、週刊情報紙として「週刊碁」がある。
日本棋院の創立とともに、日本棋院の機関誌として、1924年10月に創刊。棋戦などの手合の情報の掲載の他、独自の企画なども行い、情報誌としての機能に加え、メディアを通じての囲碁普及の役割も担った。1999年7月号で終刊し、「囲碁クラブ」と合併して「碁ワールド」となる。
詳細は「棋道」の項参照。
「棋道」の姉妹誌として「爛柯」が1925年に創刊され、1928年に「囲碁倶楽部」に改名。戦時中に休刊し、1954年に復刊。「碁ワールド」発刊により終刊。
独自棋戦の主催も行い、1988年から1996年までの、プロとアマチュア混合の地域対抗団体戦「キリン杯GO団体戦」などがある。
「棋道」「囲碁クラブ」を引き継ぐ機関誌として、1999年8月から発刊。
従来誌に比較して、海外の囲碁情報に力を入れている。
初級者向けの月刊誌。1973年に創刊の「レッツ碁」から、1995年に「囲碁未来」に改名した。