日本書紀(にほんしょき、やまとぶみ)は、奈良時代に成立した日本の歴史書である。日本における伝存最古の正史で、六国史の第一にあたる。舎人(とねり)親王らの撰で、720年(養老4年)に完成した。神代から持統(じとう)天皇の時代までを扱う。漢文・編年体をとる。全30巻、系図1巻。系図は失われた。
目次
1 成立過程
1.1 日本書紀成立の経緯
1.2 記述の信頼性
1.3 書名
1.4 原資料
2 編纂方針
2.1 文体・用語
2.2 紀年・暦年の構成
2.3 讖緯(しんい)の説
2.4 紀年論
2.5 本文と一書
3 諱と諡
4 構成
5 現存本
6 刊行本
7 書紀講筵と書紀古訓
8 竟宴和歌
9 外部リンク
10 注釈
11 参考文献
12 関連項目
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『古事記』と異なり『日本書紀』には、その成立の経緯が書かれていない。しかし後に成立した『続日本紀』の記述により、成立の経緯を知ることができる。『続日本紀』の養老四年五月癸酉条には、
「先是一品舎人親王奉勅修日本紀 至是功成奏上 紀卅卷系圖一卷」
とある。その意味は
「以前から、一品舍人親王、天皇の命を受けて日本紀の編纂に当たっていたが、この度完成し、紀三十巻と系図一巻を撰上した」
ということである(ここに『日本書紀』ではなく『日本紀』とあることについては書名を参照)。
中国の史書、『晋書』安帝には、266年に倭国の関係記事があり、その後は5世紀の初めの413年(東晋・義熙9年)に倭国が貢ぎ物を献じたことが記されている。この間は中国の史書に記述がなく、日本にも文字の記録は無いことから、「謎の4世紀」と呼ばれている。倭王武の上表文や隅田八幡神社鏡銘、埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣銘文などから、5世紀代には文字が日本で使用されていると考えられている。しかし、当時朝廷内で常時文字による記録がとられていたかどうかは不明である。
稲荷山古墳出土鉄剣の発見により、雄略天皇の実在は確実であるとして、その前後、特に仁徳天皇以降の国内伝承にある程度の証拠能力を認めてもよいとする意見も存在する。一方、実証主義的観点から、記紀や『上宮記』を全面的に信用することは出来ないとして、継体天皇以前の大王の名や系図等は不明であるとする慎重な意見もある。稲荷山古墳から発見された金錯銘鉄剣の銘によれば5世紀中葉の地方豪族が8世代にもわたる系図を作成したのは事実である[1]。ただし、それが正確な史実であるかどうかはわからない。同様に、現在伝わる雄略天皇の頃の皇室系図が正確である保証は無く、4世紀後半以前の天皇家[2]の祖先については、事実を正確に記録していたと推定する根拠は乏しいとする。
『隋書』卷八十一 列傳第四十六 東夷 ?國には
「無文字唯刻木結繩敬佛法於百濟求得佛經始有文字」
文字なし。ただ木を刻み縄を結ぶのみ。仏法を敬う。百済において仏経を求得し、初めて文字あり。
との記述がある。この記述を根拠として、朝廷内での文字の常用はおそらく西暦600年前後、聖徳太子の頃であり、継体天皇即位の頃については文字としての記録は無く、口頭での言い伝えとして大和朝廷周辺に記憶があったのみであるとする説もある。
現代の研究では、『古事記』や『日本書紀』の記述は、外国資料を参照したと思われる部分を除いて、継体天皇以前の記述は正確さを保証できないと考えられている。特に継体天皇以前の編年は不正確であるとされている。そのことは継体天皇の没年が『古事記』と『日本書紀』で三説があげられ、『書紀』の編者は外国資料である『百済本記』[3]に基づき531年説を本文に採用したことからも推察することができる。一般に、継体天皇以前の歴史を探るには、考古学的資料が優先される。記紀の記述と神話伝説(時代的変遷の可能性もある)の解釈は考古学的資料の裏付けが存在しない限り、学問的な評価は得られない。
皇室の歴代や系図の成立過程については、継体の系図を記録した『上宮記』や、現在は伝わらない聖徳太子による国史の成立以前にも各種の系図は存在したが、様々な系図に祖先として伝説上の人物を書いたもので正確な内容ではなく、これらを参考にして『上宮記』や『古事記』、『日本書紀』が作られたとする説もある。仮に推古朝の600年頃に『上宮記』が成立したとするなら、継体天皇(オホド王)が亡くなった531年は、当時から70年前である。なお、記紀編纂の基本史料となった『帝紀』、『旧辞』は7世紀頃の成立と考えられている。
『日本書紀』には推古天皇二八年(620年)に、聖徳太子、蘇我馬子らが共同で「天皇記・国記・臣連伴造国造百八十部・公民等本記」を編纂したという記録[4]がある。