日本の貿易史(にほんのぼうえきし)では、日本の対外貿易に関する歴史について説明する。
目次
1 北東アジア地域との接触
1.1 中国の冊封体制
1.2 宋の出現と武家の台頭
1.3 モンゴルの興亡と室町幕府
2 ヨーロッパ人との接触
2.1 ポルトガル人との貿易
2.2 オランダ人との貿易
3 鎖国
4 欧米との再接触
4.1 開国
4.2 殖産興業
4.3 条約改正
5 日本の近代化と世界への進出
5.1 大戦景気
5.2 統制経済
6 戦後復興とグローバリゼーション
7 脚注
8 関連項目
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日本列島は最終氷期が終わったおよそ1万年前にユーラシア大陸から切り離され、以降は外の国や地域との交流を行うさいには海を渡る必要があった。そのため日本は造船・航海技術の発達が見られるまで、文字通り孤島となって近隣地域と隔絶されることになる。古代において東アジアの中心的な位置を占めていたのは早くに文明が起こった中国で、自らが東アジアの中心となり近隣諸国・地域との冊封体制を構築していった。中国が日本を冊封した記録は後漢の時代にまで遡る。その後中国王朝への朝貢は邪馬台国の台与以降は途絶えていた。4世紀後期には倭の五王が南朝への朝貢を再開するも、その後日本は長きにわたり大陸との接触を行っていない。7世紀なって日本は遣隋使を送るようになるが、これは冊封体制のもとではなく、あくまでも対等の関係で行おうとしたものであった。617年に李淵が隋を滅ぼし、翌年に唐を建国した。これをうけて遣隋使は遣唐使と改称され、9世紀前半まで交流が続いた。唐の都の長安は西アジアやインドからの使節や商人が集まる国際都市となり、長安を中心にさまざまな商品や知識が日本を始め東アジア各地に広まっていった。この間日本は新羅との関係が悪化し、朝鮮半島をめぐる地域情勢が不安定になると日本は渤海との交流を深めていった。渤海からは薬用人参や毛皮などが、日本からは絹・綿などの貿易が見られるようになった。894年に遣唐使が廃止され907年に唐が完全に滅んだ後も民間レベルでの交易が続くようになった。
詳細は日宋貿易を参照
875年に起こった黄巣の乱以降、唐は統一中国を治める能力を失い、各地の地方勢力である藩鎮が自立傾向を示し、表向きは唐が滅亡してから70年ほどであった(五代十国時代[1])が、事実上1世紀以上にわたって中国は分裂状態にあった。これを再び統一したのは宋であったが、宋王朝は遼や金などと対立していたことなどから、中国全土に対して強力な支配を行っていたとは必ずしもいえないが、宋のもとで中国の社会が安定し農業や商業が飛躍的に発展したと考えることはできる。一方日本では遣唐使の廃止以降、鴻臚館での貿易は続けられていたものの、一般の宋の商人は博多や敦賀に来航し、民間レベルでの貿易を行っていた。日宋貿易に関心を寄せた平忠盛は独自にこれを活発にし、輸入品を朝廷にもたらして権力を持つようになった。その後平清盛は大輪田泊を改修するなど貿易を振興し、そこから得られる利益をもとに平氏政権を磐石なものにしていった。平氏政権の崩壊後も鎌倉幕府は民間貿易を認め、13世紀の南宋が滅亡する直前まで日宋貿易は続いた。この間日本には絹織物や陶磁器[2]などが輸出され、とくに12世紀中ごろからの宋銭がもたらされたことは日本の貨幣経済制度を促進された。