日中戦争(にっちゅうせんそう)とは、1937年(昭和12年)から1945年(昭和20年)の間に大日本帝国と中華民国の間で行われた事変及び戦争である[1]。 日本での公式の呼称は支那事変であり、現在の中華民国や中華人民共和国での呼称は ⇒中国抗日戦争もしくは八年抗戦である[2]。また英語では、 ⇒Second Sino-Japanese Warと表記する[3]。
日中戦争開始以前の状況については十五年戦争を参照
目次
1 「戦争」か「事変」か
2 日中戦争年表
2.1 1937年(昭和12年)
2.2 1938年(昭和13年)
2.3 1939年(昭和14年)
2.4 1940年(昭和15年)
2.5 1941年(昭和16年)
2.6 1942年(昭和17年)
2.7 1943年(昭和18年)
2.8 1944年(昭和19年)
2.9 1945年(昭和20年)
3 関連項目
4 注釈
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日本では当初、北支事変(ほくしじへん)、後に支那事変(しなじへん)と称しており、新聞等マスコミでは日華事変(にっかじへん)などの表現が使われる場合もあった。現在でも日本政府の正式な呼称は変らず、防衛省防衛研究所戦史室や厚生労働省援護局、準公式戦史である「戦史叢書」、靖国神社や各県の護国神社では「支那事変」の呼称を使用している。
しかし、マスコミでは「日中戦争」という呼び方が広く定着している。これは日英米間の開戦(1941年12月)とともに、蒋介石政権は日本に宣戦布告し、日本側は「支那事変開始時点に遡って今回の戦争全体を大東亜戦争と称する」[要出典]と定めたため、おおまかに「戦争」と認識されることが多いからである。さらにマスコミでは「支那」という言葉の使用を嫌って日中戦争と言い換える例が多い。
「事変」という呼称が選ばれたのは、「大日本帝国と中華民国が互いに宣戦布告しておらず公式には戦争状態にない」という状態を、事変の勃発当初から日米戦争の開始までの4年間、双方が望んだからである。宣戦布告を避けたのは両国が戦争状態にあるとすると、第三国には戦時国際法上の中立義務が生じ、交戦国に対して軍事的な支援をすることは、中立義務に反する敵対行動となるためである。これ以上の国際的な孤立を避けたい日本側にとっても、外国の支援なしには戦闘を継続できない蒋介石側にとっても宣戦布告は不利とされたのである。
1937年(昭和12年)
1936年12月13日 - 西安事件
2月15日‐国民党三中全会開催(赤化根絶決議)
4月 ソ連に拘留されていた蒋介石長男‐蒋経国家族(ロシア人妻と子供)を伴って帰国
7月7日 - 盧溝橋で軍事衝突発生(盧溝橋事件)
7月11日 - 近衛文麿内閣、対中方針を発表し、天津に二個師団の増派を決定。
7月19日 ‐ 盧溝橋衝突事件の停戦協定成立
7月25日 - 郎坊駅事件(鉄道駅での日中軍衝突)
7月26日 - 広安門事件(北京広安門で日本軍が中国軍より銃撃)
7月29日 - 通州事件(冀東防共自治政府保安隊による日本人虐殺)
8月9日 ‐ 大山海軍中尉(上海特別陸戦隊)が殺害される
8月13日 - 支那側の疎開地への本格的攻撃開始(第二次上海事変)
8月14日 - 渡洋爆撃開始
8月21日 ‐ ソ支不可侵条約締結(ソ連の軍事援助)
8月22日 ‐ 共産党軍の国民政府軍への編入
9月 - 日本海軍、中国大陸沿岸を封鎖
9月22日 - 共産党国難に赴く宣言と蒋介石談が放送される。通称第二次国共合作と呼ばれる。
9月14日 - 日本軍、北京・天津より南進を開始。保定攻略。
11月 - 国民政府(蒋介石)、重慶へ遷都
11月5日 - 日本軍、杭州湾に上陸。
11月19日 - 日本軍、蘇州攻略。
11月27日 - 日本軍無錫攻略。
11月29日 - 日本軍、常州攻略。
12月1日 - 参謀本部、南京攻略を許可。