新法・旧法の争い(しんぽう・きゅうほうのあらそい)とは、中国北宋の中期神宗代から末期徽宗代にかけて起こった政治的な争い。王安石によって新法と呼ばれる改革が行われるが、これに司馬光を初めとする反対者が続出し、長く論争と政権闘争がくり広げられた。その結果、大きな政治的混乱を生み、北宋滅亡の原因と評される。
目次
1 事前の経緯
1.1 軍事費の増大
1.2 冗官の増加
1.3 格差の拡大
2 国家再建の機運
3 新法の各内容
3.1 農業に関する新法
3.2 商業に関する新法
3.3 軍事に関する新法
3.4 その他
3.5 元豊の改革
4 新法の目指したもの
5 各法の批判と変遷
5.1 青苗法に対する批判
5.2 募役法に対する批判
6 論争と党争
6.1 神宗期
6.1.1 熙寧年間・王安石宰相時代
6.1.2 元豊年間・神宗親政時代
6.2 哲宗期
6.3 徽宗期
6.4 その後
7 脚注
8 年譜
9 参考文献
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五代から宋にかけて商業活動が活発化し、平和の回復に伴って地方からの上供も安定するようになった。商業活動から得られる商税・塩・酒の専売などの収入を背景に宋朝は非常に強い経済力を誇った。しかし仁宗のいわゆる慶暦の治(1041年 - 1048年)の時代を頂点として、以下にあげられるような要因によって次第に財政が悪化し、英宗時代に赤字に転落した。
1038年(宝元2年)にタングートの李元昊が皇帝に即位し、国号を夏(西夏)と称した。これを認めない宋は西夏との間で交戦状態に入った。戦争は長引き、それに乗じて先立っての?淵の盟で宋と和約を結んでいた遼(当時の国号は「契丹」)が領土割譲を求めてきた。これを受け入れるわけにいかない宋は遼に対して送っていた歳幣の額を増やすことでこれを収め、西夏とも、西夏が宋に対して臣従し、宋から西夏に対して歳賜を送ることで和平を結んだ[1]。
しかし和平が結ばれても国境に配置する兵士を減らせるわけではなく、この維持費が膨大なものとなった。太祖趙匡胤の時に総計40万弱であったのが、仁宗のときに120万を超えており、その維持費だけで5,000万貫に達していた。この頃の歳出が大体9,000万から1億2,000万貫ほどである[2]。
宋では科挙を大幅に拡充し、年間数百人がこの関門をくぐり抜けて官となっていった。しかし官がやるべき仕事がそこまで多いわけではなく、重複ないし不必要な役職、すなわち冗官が増えていた。三代真宗の代に「天下の冗吏十九万五千を減ぜん」との記録があり、それに加え、宋代は歴代でも最も官僚を優遇し、俸給は多く、更に何かと恩賜があった。
また唐の安史の乱以降の律令制の崩壊以降、律令と現実社会との乖離が生まれ、その間を使職と呼ばれる令外官を置いていくことで埋められていった。しかしそのやり方は計画性・長期的視点にとぼしく、体系的な官制を作るものではなかった。宋でもそれは基本的に受け継がれ、唐風の三省六部体制が形骸を残したまま実際に政治を動かすのは使職という二重体制が布かれていた。このような体制は当然非常にわかり難く、非効率であり、同じような役職が併存するようになっていた。歳入・歳出表 (単位:匹貫石両[3])