フリーウェイクラブは、かつて存在した任意団体。高速道路の料金所で有料道路の通行料金不払い運動を行うことにより、道路行政に抗議活動を行うと自称している。和合秀典が会長であったが、2006年11月23日、会長が解散を表明した。会の規約によれば、略称は「フリクラ」。以下、この略称を用いる。
解散後に結成された政治団体、新党フリーウェイクラブについても本項で記述する。
目次
1 概要
2 沿革
2.1 500円通行時代
2.2 無料通行時代
2.3 摘発
2.4 新党 フリーウェイクラブ時代
3 メディア
4 関連書籍
5 脚注
6 関連項目
7 外部リンク
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週刊誌や公式ページに述べられた、フリクラの主張は、おおよそ次のとおりである。
首都高速道路公団の通行料値上げに対し、安易であり経営の怠慢と指摘。「公団の経営努力がなされていない」旨の内容を記した「旧料金通行宣言書」(2001年以降は「無料通行宣言書」に変更。以下両者を併せて「宣言書」と記す。)と旧料金を料金所の収受員に手交して通行することにより、抗議の意思表明とする。2001年以降は、宣言書のみ収受員に手交して無料通行する事により、抗議の意思表明をする方法に切り替える。
終身会費を支払うことで、「宣言書」「対料金所収受員応対マニュアル」が送付された。
無料通行により、高速道路株式会社(旧道路関係四公団)・地方道路公社・関連企業の資金源を断ち、国土交通省も含めた責任を追及する。
道路には無料開放原則があり、有料道路制度は30年償還ののち無料開放されるべき時限立法であると主張。道路公団民営化は恒久有料化につながるとして、反対の立場を採る。
会員を1万人募る。そののちに、1万人訴訟を行う。もしくは、1万人の無料通行者により料金収受を麻痺させ、有料道路制度を有名無実化させる。
副会長であった、田中けんの主張によれば、「無料化も含め高速道路の問題を市民レベルで考える団体であり、無料通行は運動の選択肢の一つで、フリクラは無料通行の強制や勧誘を主張していない。」という。
のちに「新党フリーウェイクラブ」として、第21回参議院議員選挙に和合が東京都選挙区で立候補した。首都高速道路の無料化を掲げたが、過去9度の選挙でいずれも最下位であった又吉イエス(又吉光雄)にも及ばず20人中最下位となり落選した(法定得票数未満のため、供託金も没収された)。
500円通行時代
1987年9月10日、首都高速道路の通行料金が500円(普通車。以下断り無い場合は全て普通車料金である)から600円に値上げされた。これに反発した金属加工会社社長の和合秀典が同日、「渋滞も解決せずに一挙20%値上げは納得がいかない」と主張。自分の名刺を渡して500円で料金所を強硬に通り抜けたのが事の発端となった。
その後、「公団側の経営努力及び値上げに納得できる説明があるまで旧料金で通行します」との文書を作成。500円通行を繰り返した。これが後に「宣言書」の元となる。
同年12月5日。首都高速道路公団は、理事長名で警告書を送付。
1988年、和合秀典はこれに反発。約30名の同志を募り「フリーウェイクラブ」を結成。そのまま会長となり抗議の500円通行を組織的に行う。
1992年8月27日、値上げ分の通行料金に対する債務不存在確認訴訟の、棄却判決を受ける(東京地方裁判所)。その後控訴、上告ののち最高裁判所で棄却され、判例となる。
1993年には、道路整備特別措置法(25条、当時)を適用し、会長の預金に対して強制徴収が行われる。この際、同法に基づき2倍の割増金が加算され、合計して3倍の料金を徴収されている。
無料通行時代
その後、インターネットなどで会員を募る。
2001年、公団側からの回答がないため無料通行に切り替える旨の文言を「宣言書」に追記。無料通行による抗議に切り替える。しかし上記の首都高理事長の警告書については触れていない。
ただし、元はといえば、500円通行運動を始めた当初、首都高速道路公団(当時)の課長(同)に「30年たったら無料になりますよ。それが5年後の1993年に来ます」と言われたのが伏線であった。当時の道路整備特別措置法では、高速道路は建設から30年で建設費を償還し、無料開放されることになっており、首都高速道路では1993年(正しくは1992年)に最初の無料化路線が現れるはずだったのである。しかし、現実に無料化されることはなく、償還期限を法改正で40年に延長しただけだった。また、料金のプール制を導入し、個別の路線ではなく、接続する全ての路線をまとめて償還する方式に変えられた(一般の高速道路は、1972年に政令でプール制になっていた)。