斎藤 雅樹
読売ジャイアンツ No.85
基本情報
国籍 日本
出身地埼玉県川口市
生年月日1965年2月18日(43歳)
身長
体重181cm
98kg
選手情報
投球・打席右投右打
守備位置投手
プロ入り1982年 ドラフト1位
初出場1984年4月6日
最終出場2001年9月30日
経歴
川口市立川口高等学校
読売ジャイアンツ(1983 - 2001)
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斎藤 雅樹(さいとう まさき、1965年2月18日 - )は、日本のプロ野球選手。ポジションは投手で、右投げ右打ち。愛称は同音姓の芸能人・斉藤清六からセイロク。
目次
1 来歴・人物
2 背番号
3 年度別成績
4 日本記録
5 獲得タイトル等
6 記録
7 エピソード
8 関連項目
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東京都足立区で生まれ、埼玉県川口市で育った。埼玉県の川口市立北中学校、市立川口高校に入学後に頭角を表し、夏の高校野球の埼玉大会では準優勝を果たす。
1982年、ドラフトで早実のエース荒木大輔の外れ1位で読売ジャイアンツに入団。
打撃、守備センスの良さから、野手転向を勧める声もあったが、当時の藤田元司監督のアドバイスもあり、サイドスローに転向。サイドスロー転向後も球速は全く落ちず、1985年には12勝を挙げる。しかし精神的な弱さがあり、それ以降は不遇な時期もあった。王貞治監督時代は1軍と2軍を往復し、敗戦処理が役割だった時期もある。
1989年、藤田が巨人の監督に復帰。藤田から再び指導を受けると、横手からの140km/h超の威力あるストレート、鋭いスライダー(本人はカーブだと言っている)を武器に、3試合連続完封勝利を含む11試合連続完投勝利の日本記録を達成するなど20勝をマーク。1990年も20勝を挙げ、巨人だけでなく『球界のエース』『ミスター完投』と呼ばれるまでに成長した。(ちなみに各年とも20勝目を挙げた試合は水野雄仁がセーブ記録)勝ち星が多ければ負け数も多いというエースもいる中、斎藤の場合は負けが極端に少ないという安定感の高さも特徴である。これには苦手とする広島東洋カープ戦の登板を回避して(これは当時、広島東洋カープには左打者が非常に多かったために苦手にしていたと言われている)先発ローテーションを組むという藤田監督の戦略も関係していた。
斎藤の武器は球威と「マッスラ(ストレートのような軌道とスピードから突如曲がるスライダー)」であった。古田敦也はテレビ番組で「キャッチャーの村田(真一)さんがよくパスボールをするのを不思議に思っていたが、あれは斎藤さんのマッスラだった。キャッチャーが捕れないほどの鋭いスライダーを投げるなんて…」と述べている。また、山崎武司は斎藤のスライダーは二度曲がったとコメントしている。
1993年から1997年まで5年連続で開幕投手を務めた。1994年から1996年は3年連続して完封勝利を収める偉業を達成。桑田真澄、槙原寛己とともに『三本柱』と呼ばれ、その中でも抜きん出た成績を残し沢村賞3回や最多勝5回など数々のタイトルを獲得した。1997年の開幕戦の対ヤクルトスワローズ戦で、広島から移籍してきた小早川毅彦に開幕3連発を浴びるなど衰えも囁かれたものの、2000年後半には一軍に復帰し登板機会は少なかったがリーグ優勝・日本一に貢献した。翌2001年のシーズン限りで槙原・村田らと共に現役を引退。
3度の防御率1位を獲るなど、投球回数2000以上の投手の生涯通算防御率2.77は歴代23位。ランキング上位は「投高打低」時代の投手が多く、1970年以降の入団投手の中ではトップの成績である。投球回数2000回以上の投手中歴代3位の.652と非常に高い通算勝率を誇ることと合わせて、近年のプロ野球において、最も点を取るのが難しく、最も勝利を確実に計算できた最高の先発投手と言うことができる。
2002年から原辰徳監督のもと、2年間は投手コーチを務める。2003年より沢村賞選考委員も務めている。2004年からはフジテレビ野球解説者・スポーツ報知評論家を務めた。
入団当時の背番号は41、現役時代最後の背番号は11。2001年に引退後、2002年に1年間欠番となっていたが、2003年に入団した久保裕也に与えられた。2005年オフに原監督の復帰とともに投手コーチに復帰した。「41」は、2007年から復活を期する木佐貫洋に与えられた。
背番号
41(1983年〜1989年)
11(1990年〜2001年)