文帝_(漢)
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第5 代皇帝
文帝 劉恒政権前漢
廟号太宗
諡号孝文皇帝
姓・諱劉恒
生没年前203年 - 前157年
在位期間前180年 - 前157年
高祖(第4子)
母薄氏
陵墓覇陵

文帝(ぶんてい、紀元前202年 - 紀元前157年 在位:紀元前180年 - 紀元前157年)は、前漢第5代皇帝恵帝の子とされる2人の少帝を除外し、第3代皇帝とする場合もある)。は恒。正式な諡号は孝文皇帝。廟号は太宗。劉邦の庶子で、生母は薄氏。妻に竇氏がいる。
目次

1 概要・人物

1.1 出生

1.2 代王時代

1.3 皇帝即位前後

1.4 文帝の施政


2 宗室

2.1 后妃

2.2 子女


3 関連書籍

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概要・人物


出生

母である薄氏は戦国時代王家の出身であり、薄氏は秦末の動乱期から楚漢戦争初期の頃に魏王豹(魏豹)の後宮に入内する。彼女の人相を見た人相師はいずれ皇帝を生むであろうと予言したと史書は伝えている。

劉邦との関係は、劉邦に同調し楚の項羽に対抗した魏豹が、彭城での大敗を契機に反劉邦の反乱を起こしたことに始まる。漢の大将軍韓信に再び敗れた魏豹は、劉邦の居城である栄陽に連行され、薄氏の一族や関係者も同行させられた。薄氏は劉邦の後宮に入り雑用を行ったが、ある日劉邦の目に留まり寝所に召されることとなる。その後ほとんど劉邦と関係を持たなかったと言われるが、薄氏は劉恒を設けることとなった。


代王時代

楚漢戦争が終結、劉邦が皇帝に即位し、異姓諸侯王が取り潰されていく中、劉恒はに封じられた異母兄劉如意の後任として王に封じられた。しかし劉恒は幼少であったため、劉邦の信任を受けた傅寛が宰相に配され、後見することとなった。劉恒は代王太后(代王国の太后)となった薄氏と弟の薄昭とともに任国に向かい、そこで成長した。

劉邦崩御後、正妃であった呂雉皇太后として実権を掌握し、劉如意など劉邦の庶子を次々と殺害していったが、劉恒はこの難を逃れている。その背景には、劉恒の生母である薄氏が、劉如意の生母の戚氏などと異なり、劉邦から寵愛されることが少なかったことが考えられる。

異母弟の趙共王劉恢の側室が正室の呂氏(呂后の甥・呂産の娘)により毒殺され、劉恢がその後を追って自害すると、呂后はその後任として劉恒の移封を検討した。劉恢や劉友ら異母弟が呂后により殺害されていることを理解している劉恒は、代が匈奴に近いため匈奴侵攻の防衛を理由とし、呂后に上奏して移封を辞退している(趙王には呂后の甥・呂禄が封じられた)。


皇帝即位前後

紀元前180年、呂雉が崩御し、呂氏一族が少帝弘を中心に周勃陳平ら建国の元勲及び斉王劉襄と朱虚侯劉章という劉邦の孫による政変で誅滅されると、新皇帝として劉恒が擁立されることとなった。

政変を実行した劉襄と劉章兄弟は、劉邦の庶長子とされる劉肥の遺児であり、呂氏一族誅滅の功績から劉襄が皇帝に即位し、劉章は斉王に封建されると思われた。しかし呂氏一族という強大な外戚による専横の記憶が残っており、一部皇族が強い権力欲を有す外戚を持つ斉王を皇帝に擁立すれば、再び外戚の専横が発生するという危惧を挙げており、生母が没落貴族の末裔で、権力欲が少なく人格者との評判の高い劉恒が擁立された。また劉恒は、生存する劉邦の遺児の最年長者であり、年齢の順により即位したという説得力も有していた。

しかし劉恒の皇帝即位に、代国から反対の声が上がった。高祖とともに戦乱の世を生き抜き、政変を起こし、呂氏一族のみならず皇帝まで廃立し、殺害した元勲を信用できないというものであった。皇帝即位を求める使者が長安と代国とを往復することが5度に及び、ようやく即位が実現している。即位の際に代国から長安へ上京する際、劉恒の皇帝即位に対する反対派が多くいたが、僅かに数名の側近と6騎の馬車のみで長安に入った。このような経緯により、即位直後は文帝と元勲との関係も円滑なものでなく、文帝が法制度改革について重臣達に下問した際も、厭味な内容の上書が行われた。

しかし、元勲が政治の舞台から引退するようになると、代王以来の臣下を登用し、政権の主導権を確保、着実に政治改革を推進していくこととなった。


文帝の施政

文帝の基本的な政治姿勢は、高祖以来の政策を継承するもので、民力の休養と農村の活性化にあった。そのため大規模工事は、急を要するものを除き停止している。宮中で楼閣を設けようという計画が出された際にも、その経費が中流家庭10戸の資産に相当すると知って中止を命じたり、自らの陵墓を父や兄に比べて小規模なものとしている。また文帝の在位期間は減税が数度実施され、一切の田租が免除された年もあった(ただし他の税や労役については実施されていたと考えられる)。法制度の改革では、斬首去勢を除く肉刑の廃止を行っている。

生母である薄氏に対しては孝行を尽くし、自ら毒味役を務めたりと孝行な皇帝であるとして、後世二十四孝として数えられた。文帝は薄氏を尊重し、冤罪により周勃が逮捕された際に薄氏から叱責を受けると、周勃の釈放を命じたり、文帝の匈奴親征についても臣下の諫言を容れない状態であったが、薄氏の説得により遠征中止を命じている。

自らの皇帝即位の擁立者でもあり、同時に政敵でもあった諸侯王に対しては穏便に接し、本来ならば無嗣断絶になる場合、また謀反を起こして廃立される場合にも、皇帝の恩恵という名目でその血縁者を求め、領地を分割させて諸侯の地位を保全させる努力を払っている。これらは後の呉楚七国の乱の原因となったと批判されているが、この分割相続によって、反乱を起こした諸侯王家の意思統一が困難になり、乱の早期鎮圧が可能になったともいえる。

文帝の政策は、父の高祖や嫡母の呂雉あるいは孫の武帝の時代に比べれば、目立った業績は欠如しているが、民衆にとっては社会が安定して歓迎すべき時代が創出された。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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