教育ニ関スル勅語(きょういくにかんするちょくご、Imperial Rescript on Education)は、明治時代に日本の教育の根幹をなすものとして発表された勅語である。教育勅語(きょういくちょくご)ともいう。ウィキソースに ⇒教育ニ関スル勅語の原文があります。
目次
1 発布の経緯
2 教育勅語の概要
3 発布後
4 文法誤用説
5 参考資料
6 脚注
7 関連項目
8 外部リンク
8.1 ウィキペディア関連プロジェクト
8.2 その他
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1890年(明治23年)10月30日に発布された教育勅語は、山縣有朋内閣のもとで起草された。直接の契機は、山県の影響下にある地方長官会議が同年2月26日に「徳育涵養の義に付建議」を決議し、知識の伝授に偏る従来の学校教育を修正して、道徳心の育成も重視するように求めたことによる。明治天皇が以前から道徳教育に大きな関心を寄せていたこともあり、榎本武揚文部大臣が道徳教育の基本方針を立てるよう命じられた。ところが榎本はこれを推進せず、更迭された。後任の文部大臣に山県が腹心の芳川顕正を推薦したのに対して、明治天皇は難色を示したが、山県が自ら芳川を指導することを条件に天皇を説得した。文部大臣に就任した芳川は、女子高等師範学校学長の中村正直に原案を起草させた。
この中村原案を山県が内閣法制局長官井上毅に見せて意見を求めたところ、井上は中村案の宗教色を理由に猛反対。山県は、政府の知恵袋とされていた井上の意見を重んじ、中村に代えて井上に起草を依頼した。井上は、中村案を全く破棄し、「立憲主義に従えば君主は国民の良心の自由に干渉しない」ことを前提として、宗教色を排することを企図して原案を作成した。井上は自身の原案を提出した後、一度は教育勅語構想そのものに反対したが、山県の教育勅語制定の意志が変わらないことを知り、自ら教育勅語起草に関わるようになった。この井上原案の段階で後の教育勅語の内容はほぼ固まっている。
一方、天皇側近の儒学者元田永孚は、以前から儒教に基づく道徳教育の必要性を明治天皇に進言しており、この時も儒教に基づく独自の案を作成していたが、井上原案に接するとこれに同調した。井上は元田に相談しながら語句や構成を練り、最終案を完成した。
発布は1890年(明治23年)10月30日。国務に関わる法令・文書ではなく、天皇自身の言葉という意味合いから、天皇自身の署名だけが記され、国務大臣の署名は副署されていない。井上毅は明治天皇が直接下賜する形式を主張したが容れられず、文部大臣を介して下賜する形がとられた。
教育勅語は、明治天皇が国民に語りかける形式をとる。まず、歴代天皇が国家と道徳を確立したと語り起こし、国民の忠孝心が「国体の精華」であり「教育の淵源」であると規定する。続いて、父母への孝行や夫婦の調和、兄弟愛などの博愛、学問の大切さ、遵法精神、事あらば国の為に尽くすことなど12の徳目(道徳)が明記され、これを守るのが国民の伝統であるとしている。以上を歴代天皇の遺した教えと位置づけ、国民とともに明治天皇自らこれを守るために努力したいと誓って締めくくる。
これは、西洋の学術・制度が入る中、軽視されがちな道徳教育を重視したものである。もちろん、西洋文明にも宗教(キリスト教)を背景とした道徳教育は存在するが、それを直接日本人に適用するわけにもいかず、かといって伝統的に道徳観の基本として扱われてきた儒教や仏教を使うことも明治新政府以降の理念からすれば不適切であった。このため、伝統的な道徳観を天皇を介する形でまとめたものが教育勅語とも言える。こうした道徳観は、伝統的な儒教とは異なるものであり、江戸時代の水戸学からの影響が指摘されている。
発布翌年の1891年(明治24年)の内村鑑三による教育勅語拝礼拒否(不敬事件)をきっかけに、大切に取り扱う旨の訓令が発せられた。また、同じく1891年(明治24年)に定められた小学校祝日大祭日儀式規定(明治24年文部省令第4号)や、1900年(明治33年)に定められた小学校令施行規則(明治33年文部省令第14号)などにより、学校などで式典がある場合には奉読(朗読)されることとなった。1907年(明治40年)には、文部省が英語に翻訳し、そのほかの言語にも続々と翻訳された。これを機に、イギリスをはじめ各国から高く評価され、自国の教育指針を決定する際にあたって、この勅語を参考にした国もあったといわれている。
その一方で文部大臣西園寺公望は、教育勅語が余りにも国家中心主義に偏り過ぎて「国際社会における日本国民の役割」などに触れていないという点などを危ぶみ『第二教育勅語』を起草したものの、西園寺の大臣退任により実現しなかった(西園寺による草稿は現在立命館大学が所蔵)事など、教育勅語は発布当時から「神聖視」されていたのではない。
昭和時代に入ると国民教育の思想的基礎として神聖化された。教育勅語は、ほとんどの学校で天皇皇后の「御真影」(写真)とともに奉安殿・奉安庫などと呼ばれる特別な場所に保管された。教育勅語の文章を暗誦することも強く求められた。特に戦争激化の中にあって、1938年(昭和13年)に国家総動員法(昭和13年法律第55号)が制定・施行されると、その態勢を正当化するために利用された。そのため、教育勅語の本来の趣旨から乖離する形で所謂軍国主義の教典として利用されるにいたった。
第二次世界大戦後、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) は教育勅語が神聖化されている点を特に問題視し、文部省は1946年(昭和21年)に奉読(朗読)と神聖的な取り扱いを行わないこととした。