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政治経済学部(せいじけいざいがくぶ)は、政治学・経済学を中心として社会科学を学ぶ大学の学部である。政経学部を正式名称としている大学もある。
目次
1 概要
2 早明間の政治経済学論争
3 他大学の状況
4 授与される学士号
5 政治経済学部をおく日本の大学
5.1 私立大学
6 政治経済学部を設置したが、その後廃止した日本の大学
6.1 国立大学
6.2 私立大学
7 関連項目
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政治経済学部を最初に発足させたのは、早稲田大学である。同大学は、ドイツの慣習に合わせて、政治学を法学部の一部門と捉える考え方が主流であったなか、イギリスの慣習を採用して、経済学とともに政治を学ぶ学部として「政治経済学部」を発足させた、と主張している。しかし、そもそも当時のイギリスにおいて経済学(political economy)は存在したが、政治経済学部はおろか政治経済学という概念さえ存在しなかったことからこの主張には無理がある。一般的に、政治学と経済学は北米でもドイツ、フランス、イギリスでも全く別の学問体系と捉えるのが主流であり、現在政治経済学部がある国は日本と大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国のみである。このことから政治経済学部は世界的に見て極めて特殊な学部と言える。
例外としてロンドン大学のLSEの正式名称はLondon School of Economics & Political Scienceとなっており日本における政治経済学部と近い学問構成となっているがLSEの設立は1895年であるので、1882年に開校した東京専門学校(早稲田大学の前身)の政治経済学科がこれを参考にしたことは考えにくい。
日本で政治経済学部という特殊な学部が設置された背景としては、次の事実が考えられる。当時日本においては近代化の過程で様々な外来語が翻訳されており、学問名も例外ではなかった。当時イギリスの大学では経済学をeconomyではなく、political economyの古称を使用していた。これも勿論「経済学」と訳すのだが、当時北米ではすでに経済学といえばeconomyとのみ記述するのが普通で、これらの事実を総合すると北米流のeconomyと区別するためにpolitical economyを「政治経済学」と誤訳し、あたかも北米やドイツの経済学とは別の学問体系が存在すると誤解したといえる。
その後、学習院大学と明治大学が早稲田大学に習って政治経済学部を設けたが、学習院大学ではそのわずか11年後の1964年 政経学部を法学部(法学科、政治学科)と経済学部(経済学科)に改組している。 第二次世界大戦後において早稲田大学と明治大学の政治経済学部は異なる特色を持つようになる。早稲田大学政治経済学部では行政学と近代経済学を主とし、明治大学政治経済学部は社会学とドイツ歴史学派経済学を主とした学問体系を築いた。いずれも経済学か政治学に属し、政治経済学と呼ぶべき新たな学問体系を創造するには至っていない。
その後は、どの大学でも政治学と経済学の両方を学べる学部という位置づけになっており、経営学まで網羅している大学もある。
早明両大学は古くから政治経済学部を持っていたこともあり、学問的対立が存在した。特に経済学の分野では学問体系が対立関係にあることからこの二学部に所属する学者の間で経済学論争が起き、旧来から継承されていた近代経済学と歴史学派経済学の根本的、具体的議論が繰り広げられた。
両大学ともに、学生運動の時期はマルクス経済学が主導権を握っていたこともあったが、冷戦構造の終焉を経て近代経済学の確立が目指されることになった。
具体的な論争内容は、60年代以降の学生を中心とした「政治経済学研究会」や教授陣の論文雑誌である「政経論叢」において中心の論点となった事項が数点挙げられる。
経済学は、状況に適応した施策を求めるものであるのか(早稲田)、理論追求のものであるべきか(明治)という点。これはまさに景気動向に配慮した形で適応的に政策を実行すべきか、貧富の格差の是正など社会的不安の払拭という思想的理念を政策に移すのかという、対立が存在した。
政治経済学に関する議論。早稲田では政治学と経済学の範疇をより専門化、実証化させるべきであるとの合理主義的立場を重視し、明治では社会学や人類学を背景とした、より広範な視点を摂取しながら、政治学と経済学の確立をすべきであるとの理念的立場を重視した。この近代の代表的な構図は、アメリカのコロンビア大学(専門化重視)とシカゴ学派(広範性重視)の違いを反映している。しかし、シカゴ学派には早稲田の藤原保信の政治学がその系統を担っていたし、アメリカの新古典派経済学の実証主義経済政策論を明治で教授した赤松要の流れをくむ赤松学派が存在していたため、政治経済学の対立は、部分的であったという評価もある。