摂関政治(せっかんせいじ)とは、平安時代に藤原氏(藤原北家)の良房流一族が、代々摂政や関白あるいは内覧となって、天皇の代理者、又は天皇の補佐者として政治の実権を独占し続けた政治形態である。
目次
1 摂関政治の略史
1.1 前史
1.2 成立初期
1.3 発展期
1.4 最盛期
1.5 衰退期
1.6 終焉
2 摂関政治の背景とその意義
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まず、摂関政治の足がかりを作ったのは藤原冬嗣であった。冬嗣は810年、天皇の筆頭秘書官(又は官房長官)と言うべき蔵人頭(新設官庁である蔵人所の長官)に就任し、一大法令群である弘仁格式を撰上した。この功績により、次世代における藤原北家台頭の足がかりができた。
冬嗣の子藤原良房は、857年に太政大臣へ、866年には摂政へと、いずれも人臣として初めて就任した。良房の採った政治手法は大きく二つある。一つは、他の有力貴族を失脚させることで、藤原北家への対抗心を削ぐこと(他氏排斥)。二つ目は、天皇家に娘を嫁がせ子を産ませ、天皇の外祖父として権力を握ることだった。
前者の他氏排斥としては、842年の承和の変において伴・橘両氏及び藤原式家を、次いで866年の応天門の変において伴・紀両氏を失脚させている。
後者としては、文徳天皇に娘を嫁がせ、その結果清和天皇が誕生し、天皇の外祖父として確固たる政治基盤を築いている。
この、娘を天皇家に嫁がせる手法は、藤原北家の伝統となり、天皇の代理者・補佐者としての地位の源泉ともなっていった。
良房の死後、養子の藤原基経はすぐに摂政へ就任し、884年に急遽年配の光孝天皇が即位した際には、事実上の関白に就任した。それまでは幼少の天皇の代理者たる摂政として権限を行使してきたが、ついに成人の天皇の補佐者(事実上の権限代行者)たる関白の地位も手中にしたことになる。ただし、良房・基経の時代には太政大臣と摂政・関白の間に明確な職掌の差があったわけではなく(藤原良房の摂政就任は清和天皇の成人後である)、基経は関白に相当する権限を太政大臣あるいは摂政の立場で行使していた可能性もある。なお、正式な関白の地位を手に入れる過程で阿衡の紛議という事件が起こり、基経は天皇に謝罪させることに成功している。
基経の子藤原時平のとき、ライバルとして菅原道真が台頭したが、901年に道真を左遷へ陥れた(昌泰の変)。時平は非常に有能な政治家として手腕を発揮していったが、摂政・関白に就任する前に死んでしまった。
次の摂政・関白の就任者は時平の弟の藤原忠平である。930年に醍醐天皇が危篤となると、幼い朱雀天皇への譲位と同時に摂政に任じられた。続いて941年に天皇が成人すると、忠平は摂政の辞表を提出したが、改めて関白に任命された。同時代の記録から確認される天皇の成人に伴う摂政から関白への地位の異動はこれが初めての例であり、今日では天皇が幼少時には摂政、成人後は関白になる例はこの時に誕生したと考えられている。彼の死後、村上天皇の親政(天暦の治)が行われ、摂政・関白の座は空位となった。
しかし、村上天皇の逝去により、藤原実頼が関白に就任し、以後、明治維新まで摂政・関白が常置(後醍醐天皇による建武の新政の時期などの例外を除く)されることとなる。
安和の変による源高明の追放、次いで源兼明の皇族復帰によって他氏排斥が完了した後は、藤原北家の内部で権力争奪が行われることとなった。安和の変後、冷泉・円融両天皇の外戚であった藤原師輔の子である藤原兼通・兼家兄弟が摂関の座を争って互いにその出世を妨害しようとした。
権大納言から後継の関白の地位を得た兼通は、内覧・内大臣を経て関白に就任した。兼通に関白就任に必要な大臣の資格を与えるために内大臣が72年ぶりに設置(その前の藤原高藤は危篤となった天皇の外祖父である大納言に対する礼遇であるため、実質は奈良時代末期の藤原魚名以来191年ぶりである)された。だが、兼通の上位には左大臣源兼明と右大臣藤原頼忠(後の関白)がおり、兼通はその次の席次であった上に、兼明は一上として太政官の実権を掌握していた。そこで兼通は太政大臣に就任して源兼明を皇族に復帰させて左大臣を止めさせる詔勅を出させ、頼忠を一上に任命した。兼通は自身の子弟を公卿に昇進させてその世襲化を図ったが、息子達を公卿に任じ終えた直後に病死したために挫折した。
兼通によって長年不遇であった兼家は一条天皇の外祖父として摂政に就任した。兼家は右大臣であったものの、上位に太政大臣藤原頼忠(前関白)・左大臣源雅信がおり、雅信が一上であった。頼忠・雅信排除の名目を見出せなかった兼家は、自ら右大臣を辞して替わりに准三宮の待遇と一座宣旨を受けて、前大臣でありながら摂政後に関白として百官の上位に就いた。以後、摂政・関白の宮中での席次は、太政大臣よりも上位と考えられるようになった(「寛和の例」)。また、4人の子息と義弟を公卿に昇進させ、嫡男の藤原道隆を内大臣に任じて関白の地位を譲ったところで死去した。