排日移民法(はいにちいみんほう)は、1924年7月1日に施行されたアメリカ合衆国の法律である。
目次
1 概要
2 前史
2.1 アジア系移民の歴史
2.2 日本人移民への排斥活動とその対応
2.3 日米紳士協定とその後
3 1924年排日移民法
3.1 法案の内容
3.2 下院から上院へ
3.3 埴原書簡問題
3.4 成立の背景
4 後年への影響
5 関連項目
6 参考文献
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この法律の内容を簡単に言えば、アメリカへの移住を希望する各国の移民希望者に関して国別の受入数制限を定める内容であったが、日本人に関しては移民入国が全面的に不可能となる規定をもっていた(法案の内容参照)。
なお、正確に言えば「排日移民法」という名前の独立した法律があるわけではなく、既存の移民・帰化法に第13条C項(移民制限規定)を修正・追加するために制定された「移民法の一部改正法」のことを指す。「排日移民法」という呼称はその内容に着目して主に日本国内で用いられる俗称である。運用の実態はともかく、移民制限規定そのものは日本人のみを対象としていない。その点より、この俗称は不適切であるとする意見もある。
アメリカにおけるアジア系移民の流入は1848年のゴールドラッシュを嚆矢とする。多くの中国系肉体労働者がカリフォルニア州を中心に鉱山労働や鉄道建設に従事した。白人貧困労働者との対立・抗争は1870年代に早くも記録がある。
一方で1870年制定のアメリカ連邦移民・帰化法は「自由なる白人およびアフリカ人ならびにその子孫たる外国人」が帰化可能であるとしていた。ここでいう「自由なる白人(free white)」が指すものは当初は明確ではなかったものの、判例の積み重ねなどでそれは「コーカサス人種(Caucasian)」であるとされ、また中国系に関しては1882年のいわゆる中国人排斥法で明示的に移民が禁止されることになった(当初10年間の時限措置だったが後に延長がなされた)。
日本人の場合、ハワイへの移民は明治時代初頭からみられ、やがて米大陸本土への移民も盛んとなる。日本から直接渡航する場合もあったが、多くの者は入国しやすくまた日系人コミュニティーがすでに存在していたハワイ諸島(あるいはカナダ・メキシコ)をベースとして、ハワイ併合などにより機を見ては西海岸各都市に渡航していたようである。移民した日系人たちは勤勉で粘り強く仕事をこなし、ある程度の成功を掴む者もあらわれた。しかし彼らは一般的に「日系人だけで閉鎖的コミュニティーを形成し地域に溶け込まない」、「稼いだ金は日本の家族に送金してしまう」などとアメリカ人からは見られていた。また、現実にアメリカ市民権の取得には熱心ではない人が多く、合衆国への忠誠を誓わないなど、排斥される理由はあった。
それでも、日本人はアジア諸民族の中で唯一、連邦移民・帰化法による移民全面停止を蒙らなかった民族であった。これは日本が同地域で当時唯一、欧米諸国と対等の外交関係を構築しうる先進国であり、アメリカ連邦政府もそういった日本の体面維持に協力的であったことによる。しかし連邦政府はその管掌である移民・帰化のコントロールは可能でも、州以下レベルで行われる諸規制に対しては限定的な影響力しか行使できなかった。
こうした連邦レベル以下での排斥行動が典型的に現れたのが1906年、サンフランシスコ市の日本人学童隔離問題であった。同年の大地震で多くの校舎が損傷を受け、学校が過密化していることを口実に、市当局は公立学校に通学する日本人学童(総数わずか100人程度)に、東洋人学校への転校を命じたのである。この隔離命令はセオドア・ルーズベルト大統領の異例とも言える干渉により翌1907年撤回されたが、その交換条件としてハワイ経由での米本土移民は禁止されるに至った。
この背景としては、日露戦争に伴ってアメリカが外債の消化や平和交渉など日本を影から支援したにも関わらず、日本が門戸開放政策を行わなかったことへの不満もあげられる。
日本政府もここへきて危機感をもつ。為政者にとって在米日本人の問題は、すでに植民地経営が開始されていた台湾、朝鮮、日露戦争により進出の基盤を得た満州ほどの重要性はなかったが、大国としての矜持から、他のアジア系民族と同列に連邦移民・帰化法規を適用されることは避けたいと認識されていた。こうして1908年、林董外務大臣とオブライエン駐日大使との間で一連の「日米紳士協定」が締結され、米国への移民は日本政府によって自主的制限がされることとなった。この協定により旅券発行が停止されたのは主として労働にのみ従事する渡航者であり、引き続き渡航が可能だったのは一般観光客、学生および米国既在留者の家族であった。この紳士協定による自主規制の結果として以後10年ほど日本人移民の純増数(新規渡米者?帰国者)はほぼ横ばいに転じる。
紳士協定の「米国既在留者の家族は渡航可能」という抜け道を活用する形でこの頃盛んとなったのが「写真結婚」による日本人女性の渡米である。米国既在留者は男性独身者比率が高く、若い女性の「需要」は高かった。そこで彼らの出身地の親戚や縁故との間で写真や手紙だけを取り交わして縁談を成立させ、花嫁が旅券発給をうけて入国したわけであるが、見合結婚の習慣のないアメリカ人にとってこの形態は奇異であり、カリフォルニア州を中心として非道徳的として攻撃された。背景には、独身日系人男性が妻帯しやがて子供も生まれることで(出生児は自動的に米国市民権を得る)日系人コミュニティーがより一層発展定着することへの危機感があったことが考えられる。結局、写真結婚による渡米は日本政府により1920年禁止される。
一方「単純労働者から脱却し定着を図る日系人」への警戒感は、その土地利用への制限となって具現化する。1913年カリフォルニア州ではいわゆる外国人土地法が成立、移民・帰化法でいうところの「帰化不能外国人」の土地所有が禁止された。