押井版ルパン三世
[Wikipedia|▼Menu]

『押井版ルパン三世』(おしいばんルパンさんせい)は、1985年夏に『ルパン三世』劇場版第3作として公開される予定だった、押井守監督によるアニメ映画の通称である。
概要

テレビシリーズ『ルパン三世 PARTIII』の放送中、『ルパン三世』劇場版第3作の製作が決定した。

監督として、まず前作『ルパン三世 カリオストロの城』の監督であった宮崎駿に再度依頼がなされた。だが宮崎はこれを断り、宮崎の推薦で当時宮崎の事務所にいた押井守が監督を務めることになった。また、東京ムービー新社の社長(当時)であった藤岡豊が『うる星やつら(1981年版)』などの押井の評判を知っていたため、監督就任は短期間であっさりと決まったという[1]。押井の後年の証言によれば、宮崎は自身が嫌っている出崎統にルパン三世をやらせたくないと口にしていたとのことで、出崎が監督することを潰す意図があって押井を紹介したのだとされる[2](なお、出崎のルパン長編は1989年テレビスペシャルルパン三世 バイバイ・リバティー・危機一発!として実現)。

宮崎は、『カリオストロの城』公開時点で「ルパンというキャラクターが魅力的に見えたのは、高度経済成長期の最中、世の中には簡単に買うことができない珍しい、すごいもの(お宝)がまだある、といった夢やロマンが共有されている時代だったからだ。だが、社会が豊かになり金を出せば何でも買える時代になった現代ではお宝という夢は成立せず、泥棒というルパンのようなキャラクターは成り立たない」という問題意識を持っていたため、『カリオストロの城』ではルパンに少女の心を盗ませた。宮崎と同じ考えであった押井も、「これ以上見るに耐えないっていうか、死人を踊らせるに等しいのは見るに耐えない」という気持ちがあったため、最終的にルパンを完結させるような内容を構想、ルパンに虚構を盗ませ「ルパンは最初から存在しなかった」と思わせるような脚本を作り上げた。押井は後に「宮さんが僕に期待した役割はまず間違いなくそうだったはずなんです」「自分はやりそこなったけど、自分より後の世代であるあんたの手でルパンに引導を渡せ、ということだったと僕は理解している」と発言している[3][4]。なお、「ルパンは最初から存在しなかった」とは正確には、ルパンの正体は次元大介石川五ェ門峰不二子の3人であり、この3人が交代で変装していたのがルパンというものだった[5]

公開時期も決まり、劇場で配布された制作中の東宝映画を紹介するリーフレットには「世紀末、彼は時代を盗んだ」のキャッチコピーと共に押井監督ルパンが予告されていた。だが、押井が拘った下記の脚本はプロデューサーの理解を得られず押井は降板、企画は頓挫した。
経緯

当初、押井が声をかけた若手のアニメーターたちの多くは「何故、今更ルパン?」とあまり乗り気ではなかったが、押井は「今の時代だからこそ、ルパンが必要なのだから」と説得し参加を求めた[1]。また、押井は『アニメージュ』(徳間書店)1984年12月号から「映画『ルパン三世』制作おぼえがき」の連載を開始した[6]

しかし、ルパンは子供も楽しめる娯楽作品であるべきと考える読売テレビ東宝のプロデューサーは、「ルパンは存在しなかった」という結末が提示された押井の脚本に「訳が判らん」「理屈っぽい」と強固に反対した[7][8]。また「ルパンに動きがない」「アクションに乏しい」などの意見もあり、スタッフのミーティングでは内容的に営業も厳しいと告げられたという[9]

別のストーリーを求められ、ミーティングに出席した飯岡順一は「折角のチャンスだから」と大和屋竺など別の脚本家を起用し一からやり直してみてはどうかと提案したが、押井は明確な答えを出さなかった[9]。押井は『ルパン三世』をやるとしたら当初提示した案しか考えられないというスタンスだったため、後日、正式に降板する。これにより、押井が『ルパン三世』を監督するという企画は潰れた。

押井が脚本段階で降板したため、作画作業には入っておらず、集められたアニメーターは1カットも描かないまま解散した。この企画の頓挫によって、それまで組んで仕事をしていた何人かのスタッフを押井は失う結果となった[10]。押井にとって自信があった企画だけに、しばらく立ち直れないくらいショックだったという。後に押井は『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー[注 1]の成功で調子に乗っていて、甘かったと回想している[8]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:68 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef