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折口 信夫(おりくち しのぶ、明治20年(1887年)2月11日 - 昭和28年(1953年)9月3日)は、日本の民俗学、国文学、国学の研究者。釈迢空(しゃく ちょうくう)と号して詩歌もよくした。みずからの顔の青痣をもじって、靄遠渓(あい・えんけい=青インク)と名乗ったこともある。
目次
1 年譜
2 人物評
3 人物像
4 折口信夫の五博士
5 受賞歴
6 作品一覧
7 主な評論・評伝
8 参考文献
9 脚注
10 外部リンク
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年譜
1887年2月11日 - 大阪府西成郡木津村(現在の大阪市浪速区)に父秀太郎、母こうの4男として生まれる。折口家は木津の願泉寺門徒の百姓であったが、曽祖父彦七の時から商家となり、生薬と雑貨を商った。祖父の造酒ノ介はもと、大和の明日香村岡寺前の岡本善右衛門の8男であったが、同地の古社飛鳥坐神社の累代の神主家飛鳥助信の養子となった後折口家に入り、医を業として従来の家業を兼ねた。父秀太郎は河内国の名主の家の次男で、折口家の養子となり医を継いだ。[1]
1890年 - 木津幼稚園に通う。
1892年 - 木津尋常小学校(現在の大阪市立敷津小学校)に入学。
1894年 - 叔母えいから贈られた『東京名所図会』の見開きに初めて自作歌を記す。感謝の念篤く、『古代研究』にはこの叔母への献詞を載せている。
1896年 - 大阪市南区竹屋町、育英高等小学校に入学。
1899年4月 - 大阪府第五中学校(後の天王寺中学)に入学。中学の同級生には武田祐吉(国文学者)、岩橋小弥太(国史学者)などがいた。
1900年夏 - 大和の飛鳥坐神社を一人で訪れた折に、9歳上の浄土真宗の僧侶で仏教改革運動家である藤無染(ふじ・むぜん)と出会って初恋を知ったという説がある[2]。富岡によると、迢空という号は、このとき無染に付けられた愛称に由来している可能性があるという。
1901年 - 「文庫」、「新小説」に投稿した短歌一首ずつが入選。
1902年 - 成績下がる。暮れに自殺未遂。
1903年3月 - 自殺未遂。作歌多し。
1904年3月 - 卒業試験にて、英会話作文・幾何・三角・物理の4科目で落第点を取り、原級にとどまる。この時の悲惨さが身に沁みたため、後年、教員になってからも、教え子に落第点は絶対につけなかった。同じく後年、天王寺中学から校歌の作詞を再三頼まれたが、かたくなに拒み続けたと伝えられる。大和に3度旅行した際、室生寺奥の院で自殺を図った若き日の釈契沖に共感、誘惑に駆られる。
1905年3月 - 天王寺中学校を卒業。医学を学ばせようとする家族の勧めに従って第三高等学校受験に出願する前夜、にわかに進路を変えて上京し、新設の國學院大學の予科に入学。藤無染と同居。約500首の短歌を詠む。
1907年 - 予科修了、本科国文科に進んだ。この時期國學院大學において国学者三矢重松に教えを受け強い影響を受ける。また短歌に興味を持ち根岸短歌会などに出入りした。
1910年7月 - 國學院大學国文科卒業。卒業論文は「言語情調論」。
1911年10月 - 大阪府立今宮中学校の嘱託教員(国漢担当)となる。
1913年12月 - 「三郷巷談」を柳田國男主催の『郷土研究』に発表し、以後、柳田の知遇を得る。
1914年3月 - 今宮中学校を退職し、上京。折口を慕って上京した生徒達を抱え、高利貸の金まで借りるどん底の暮らしを経験したという[3]。
1916年 - 國學院大學内に郷土研究会を創設する。