戦没将兵追悼記念日
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戦没将兵追悼記念日(せんぼつしょうへいついとうきねんび、Memorial Day、メモリアルデー)とは、米国の連邦政府の定めた祝日で、5月の最終月曜日である(最新は2008年5月26日)。戦没将兵記念日、戦没者追悼記念日などとも呼ばれる。かつてはデコレーション・デー(Decoration Day)として知られていた。この祝日は、兵役中に亡くなった米国の男女を追悼する日である。最初は南北戦争で亡くなった北軍兵士を称えるために始められた。第一次世界大戦の後、あらゆる戦争、軍事行動で亡くなった兵士を含むように拡大された。最も長く続く伝統の一つはインディ500であり、1911年以来、戦没将兵追悼記念日に開かれている。
目次

1 伝統的な行事

2 歴史

3 文学、音楽において

4 外部リンク

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伝統的な行事

多くの人々はこの祝日に墓地や記念碑を訪れる。国をあげて追悼時刻はワシントン時間で午後3時である。もう一つの伝統は、地方時間の夜明けから正午まで星条旗の半旗を掲げることである。ボランティアが国立墓地にあるそれぞれの墓の上に星条旗を置く。

追悼に加え、戦没将兵追悼記念日はまたピクニック、家族の集い、スポーツイベントの機会でもある。一部の米国人は、戦没将兵追悼記念日を非公式なの始まり、レイバー・デーを非公式な夏の終わりとみなしている。自動車事故やその他の安全に関する事故が起こりやすいシーズンが始まることを考慮して、国のシートベルト着用(Click it or ticket)キャンペーンが戦没将兵追悼記念日の週末から始まる。アメリカ空軍の「夏の重要な101日(101 Critical days of summer)」もこの日に始まる。一部の米国人は戦没将兵追悼記念日の週末を兵士だけではなく亡くなった家族を悼むために使う。戦没将兵追悼記念日に先立つ日曜日のキリスト教の教会の礼拝式では過去1年間に亡くなった信者の名前の朗読が行われることもある。

戦没将兵追悼記念日は、かつては5月30日であった。日付に重要性はないが、退役軍人会 (Veterans of Foreign Wars、VFW)や南北戦争北軍退役軍人会 (Sons of Union Veterans of the Civil War、SUVCW)のような一部の人は、決まった日に戻すことを主張している。退役軍人会は2002年の戦没将兵追悼記念日の演説で「単に3連休にするために日付を変えることは、戦没将兵追悼記念日の意義を弱める。疑いもなく、このことが大衆の戦没将兵追悼記念日に対する無関心の大きな原因となっている。」と述べた。 ハワイ州の上院議員ダニエル・イノウエは、第二次世界大戦に兵士として従軍したことがあるが、1998年以来戦没将兵追悼記念日を伝統的な日に戻す方法を繰り返し発表している。


歴史

南北戦争の終結後、多くの地域社会で戦争終結の記念日又は戦没者を追悼する日と定められた。戦没将兵追悼記念日を早期に創設した街には、サウスカロライナ州チャールストンペンシルバニア州ボールズバーグ(Boalsburg)、バージニア州リッチモンドイリノイ州カーボンデールミシシッピ州コロンバス、その他24の都市や町がある。これらの行事は、結局、北軍の死者を称えるデコレーション・デーと複数の南軍の戦没将兵追悼記念日前後に行われるようになった。

1865年、エール大学歴史学部のデイヴィッド・ブライト(David Blight)教授の提案にしたがって、初めての戦没将兵追悼記念日がチャールストンの歴史的な競技場で開放された奴隷によって祝われた。その場所は、収容中に亡くなった北軍兵士の共同墓地であっただけでなく、以前の南部連合政府の捕虜収容所であった。多くの解放された黒人と北軍兵士のパレードの後には、愛国心にあふれた歌声とピクニックが続いた。戦没将兵追悼記念日の公式な誕生地はニューヨーク州ウォータールーである。その村が誕生地とされるのは、その村が1866年5月5日に、そしてその後毎年その日を祝ったからであり、そしておそらくは著名なウォータールーの住民であるジョン・マレー(John Murray)将軍と、その日を毎年祝うように求め、イベントを全国に広げるように一役買ったジョン・A・ローガン将軍の友情がその成長の鍵となる要因だったからであろう。

ローガン将軍は、南軍が特別な日に自軍の死者を称える方法に感銘を受け、北軍にも同じような日が必要であると確信した。伝えられるところによると、ローガンは次のようにするのが最もふさわしいと語ったといわれる。古人は、特にギリシア人は、死者を、特に英雄を月桂樹と花の飾りで称えた。この地のすべての兵士の墓を飾るための日とするよう命令を出すつもりである。もしできるなら、その日を祝日としたい。( ⇒http://www.dixiescv.org/csa-memorial-day.html 及び ⇒http://hnn.us/articles/754.html)

ローガンは、1866年4月29日、イリノイ州カーボンデールの墓地で行われた市を挙げての記念祝典の主講演者であった。おそらくその日を国民の祝日にするというアイデアが彼の頭に浮かんだのはこのイベントである。1868年5月5日退役軍人の団体、グランド・アーミー・オブ・ザ・リパブリック(Grand Army of the Republic)の長という立場で、ローガンは「デコレーション・デー」を全国的に祝うべきであるという声明を発表した。そして同じ年の5月30日に初めて祝われることとなった。その日が選ばれたのは、それが戦闘の記念日ではなかったからである。北軍兵士のはこの日を祝って飾られた。

多くのアメリカ連合国の州は、北軍に対して残っていた敵意のため、また、南部に暮らす北軍の復員軍人がきわめて少なかったためデコレーション・デーを祝うことを拒んだ。多くの南部諸州は戦没将兵追悼記念日をずっと認めなかったが、第一次世界大戦の多くの復員軍人は南部出身であったため第一次世界大戦以降認めるようになった。但し、南部諸州は、州によって日付は異なるが、引き続き連合国の戦没将兵追悼記念日が別にあった。注目すべき例外はコロンバスで、1866年のデコレーション・デーに墓に埋められた北軍及び南軍の犠牲者をともに追悼した。

「戦没将兵追悼記念日」という呼称は1882年に初めて用いられた。しかし、第二次世界大戦後になるまでずっと一般的にはならず、1967年まで連邦法では公式な呼称としては用いられなかった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Smilegreen