恐怖政治(きょうふせいじ)またはテルール(仏:Terreur)とは、フランス革命時にロベスピエールを中心とするジャコバン派(山岳派)が行った政治形態のこと。(1793年9月5日 ? 1794年7月28日)また、これに類した政治形態も恐怖政治と呼ぶことがある テロの語源でもある。
目次
1 概要
2 沿革
2.1 開始
2.2 進展
2.3 地方での状況
2.4 分派闘争
3 関連項目
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恐怖政治において、ロベスピエール派は、革命反対派、穏健派、過激派など、反対派の人物を次々と処刑した。処刑された人物は、ダントン、カミーユ・デムーラン、エベール、ラヴォアジェなど数知れない。恐怖政治の間、パリだけで約1,400名もの処刑が行われた。フランス全体では約2万人が処刑された。処刑方法は、銃殺刑も多かったが、ギロチンによる刑がよく知られている。ただし、プレリアール22日法の制定によって、司法手続きが大きく簡略化されたため、正統な裁判なしでの死刑や獄中死も多く、それらをふくめると犠牲者は4万人を超えるものと思われる。
ルソーの著作で述べられている社会を目指したことでも知られている。当初、山岳派はサン・キュロットら市民に支持を受け、恐怖政治下においてもそれは認められていたが、一般市民にも逮捕が及び、また、比較的平和に近づいてくると、恐怖政治は支持を失っていった。この政治形態は、テルミドールのクーデター(1794年7月27日)でロベスピエール派が失脚するまで続いた。
1793年3月10日、革命裁判所が設置された。同年3月21日から4月2日にかけて、議会は各コミューンに反革命派取締のための監視委員会の設置、9人から成る公安委員会 (フランス革命)の設置を決定した。これらは恐怖政治への道を開くものであった。
この頃ジロンド派とジャコバン派が決裂し、マラーやロベスピエールはジロンド派を裏切り者として攻撃した。当時、食糧難や経済の混乱から各地で民衆のデモが頻発しており、ロベスピエールはこの人民を利用する計画を立て、集会に参加するサン・キュロットに金が支払われ、人民を扇動する方策が講じられた。
5月25日、ロベスピエールは人民の蜂起を求める演説をおこなった。5月31日、ロベスピエールの計画に基づきジロンド派の追い落としが開始された。33のセクションの代表者が集められコミューンと協力し、人民軍の指揮はアンリオがとることになった。6月1日、ジロンド派のロラン夫人が逮捕、ジロンド派の新聞は禁止された。翌日、アンリオは武装した労働者を率いて議会を包囲、逃亡しようとする議員に議事の進行を要求、29名のジロンド派幹部の追放と逮捕が議決された。のちに29人のうち20人が地方へ逃げたが、そのうち数人は処刑され、2人は自殺した。こうして6月2日からジャコバン派独裁が開始される。
進展シャルロット・コルデーによるマラー暗殺(1793.07.13)
ジャコバン派独裁開始後も、当初はジロンド派の抵抗が見られ、彼らの宣伝に影響を受けたシャルロット・コルデーが7月13日にマラーを殺害した。しかし、こうした抵抗も空しく、多くの人間が断頭台の露と消えることとなる。
6月23日には1793年憲法(通称「ジャコバン憲法」)が制定される。民衆やサン・キュロットなど議会外の要求を代弁する「過激派」のジャック・ルーやヴァルレの主張により、より大きな権限が公安委員会に付与されることになる。公安委員会は再三改組され、ダントンらは排除された。これによりロベスピエールが指導権を掌握、クートンとサン・ジュストなどがそれを補佐する構造が完成した。革命裁判所では検察官のフーキエ・タンヴィルが仮借のない弾圧の執行者となった。
公安委員会は9月5日ジャック・ルーを逮捕し、18日にはヴァルレを逮捕した。「過激派」のクラブや出版物も禁止された。9月には民衆のデモに応えて食糧の価格統制が定められ、同月末には全般的価格統制法が制定され、経済統制が実施されるようになった。10月10日、サン・ジュストが国民公会に提案して「平和が到来するまで革命的である政府」の樹立が宣言された(革命政府宣言)。王妃アントワネットのの処刑(1793.10.16)
10月16日には王妃マリー・アントワネットが処刑された。ついで、ジロンド派の粛清が行なわれた。国民公会は3日間しか弁論の期間を与えず、21人のジロンド派全員が死刑判決を受けた。うち1人は自殺し、ブリッソー、ヴェルニヨら20人は10月30日にギロチンで処刑されたが、処刑に要した時間はわずか38分であった。